心斎橋駅と四ツ橋駅のために設けられた職員の詰め所がある。わたしは自路線で心斎橋駅まで乗っていった。ふつうの人間が駅の中で持っているのにはすこし豪勢な荷物を持っていたけれども、これが贈り物になると思えばむしろ微笑みたくなるようなうれしさがあった。
 扉を開けると、ちょうど目的の人物はそこにいた。鶴見緑地を出るときに一度メールを入れたとはいっても、どこにも出かけていないかどうかなんてわからない仕事だ。探し回らなくてよかったのは助かった。花の命は短くしたくない。
「あ、四つ橋、おった」
 腕一杯の花のかおりを、わたしはもう一度確かめた。ちゃんと、そういう日に相応しい花を、花屋さんの軒先で選んできたのだ。呼んだのは四つ橋だけだったのに、振り向いたのはふたりで、そうやってふたりが左右対称に振り向くとほんとうに鏡映しのようだった。
「はい、お誕生日、おめでとう」
「ありが、とう」
 驚いた顔をしている。四つ橋だけではない、御堂筋もだ。ふたりとも、どうせ四つ橋の開業日のことなんか忘れていたのだろう。ついこの前、二十周年のテロップを駅で流していたわたしとは大違いだ。
 花はわたしにとってアイデンティティだ。花が咲く会場にひとをたくさん運ぶことから、わたしの仕事は始まった。きれいにモザイクタイルを埋め込んだ京橋駅はわたしの自慢だ。だからひとに贈るものも、たとえ四つ橋にそう言う飾り気がないことが分かっていても、花を選びたかった。
「長堀が選んできたんか?」
「そう。鶴見緑地で花屋さん寄って来てん」
 御堂筋が珍しそうに四つ橋が受け取った花束を覗き込んでいる。四つ橋も持ち慣れない花束を持たされて、ふたりの顔がすこし近づいて、なんだか見ているこっちが気恥ずかしくなった。
 わたしは四つ橋に直接気持ちを確かめたことはないけれども、四つ橋はきっと御堂筋のことをだれよりも大切に思っているのだろうと勝手に気付いていた。わたしだけではなくて、地下鉄のみんなが気付いていたことだと思うけれども、誰もいまさらふたりの肩を押してあげられない。四つ橋が、誰よりも、その背中で拒んでいる。
 もし四つ橋がひとりでいたら、何か言おうかと思っていたけれども、むしろわたしはふたりでいる時間を邪魔してしまったと思った。でも、わたしだって四つ橋の誕生日を祝ってあげたかった。だから、渡せばそれで良いのだ。
「これ、どうしよう……俺、うれしい」
 四つ橋がすこしだけ顔をほころばせてくれた。わたしはとてもうれしかった。彼のことを手伝うようなことは何もしてあげられないけれども、彼が喜んでくれるのはきっといいことだ。
「十日後には、御堂筋にも花、あげるから」
「そうか、嬉しいな」
 わたしは花を覗き込む御堂筋にも言った。御堂筋が、わたしに見せる笑顔はなんだかおじいちゃんみたいにあたたかくて、わたしも笑った。
 花束を抱えている四つ橋は年相応の男の人にまったく見えなかった。そんなにしあわせそうな顔をしてくれるとは思っていなかったので、花はひとをしあわせにしてくれるなぁ、とわたしはまた思った。

 長堀は花瓶を出してそそくさと花束を生けて、仕事があるから、と去っていった。彼女が自分に気を遣ってくれていることに気付かないほど四つ橋は鈍感ではなかった。少なくとも、目の前で花を眺めていつもより緩やかな空気を纏っている御堂筋よりは、人の感情の機微に気付けると思う。
 地下鉄は当たり前だけれども全体的に暗いから、特に四ツ橋駅と心斎橋駅をつなぐムービングウォークなんて、時々自分でも寂しいとすら感じる。こうして、花がある風景は、いままでになくて幸せだった。
 それを御堂筋が喜んでくれているならばなおさらだ。
 結局、自分は彼に振り回されるように出来ている。
「なあ、御堂筋、そんなに花見たら嬉しい?」
「花も嬉しいし、こないして長堀が選んできてくれるのも嬉しいやろ。あんな小さかった子が」
 御堂筋はきっと彼女が延伸した頃の話を思い出していたのだと思う。四つ橋だってその点についてはとても嬉しかった。長堀が二十歳になるくらいの時を生きてきた。四つ橋の開業日に贈り物をしてくれるくらい、素敵な女性になってくれた、そのこと。
 けれども、同時に、花にも、長堀にも嫉妬する。せめてふたりでいるときくらい、他のことを考えている彼を見たくない。そう大人げなく思っていることを、きっと御堂筋は一生気付かない。いままで気付かなかったのだから、いまさら気付いてくれるはずもない。
「なあ、御堂筋」
 四つ橋は花からも、御堂筋からも目を逸らした。
「あの、四つ橋と心斎橋のムービングウォークな、花で飾ろうや」
「なんで?」
「こんな幸せな気持ちになれるなんて、うれしいやろ。お客さんも、俺らも元気になれる。それに」
「それに?」
「……まあ、費用あるから無理やけどな」
「なんやねん」
 何も嘘はつかなかった。ただ言えなかった。
 御堂筋と俺のあいだを歩くとき、御堂筋が幸せそうな顔してて欲しい、なんて。
 結局御堂筋は四つ橋の言いかけてやめたことを追求しなかった。されても困るしこれでまた、隠し切れたのだからそれでいいのだと思う。甘い匂いは目を閉じれば今までの四つ橋の長い過去を振り返らせた。いつだってそこに御堂筋がいるから、もう逃げ場なんてないような、そんな気がした。

2010年四つ橋さんと御堂筋さんの開業日の五月頃に書いたもの。
20100820