「はあ」
 長堀はおもむろにため息をついた。
 同じ部屋にいたのは南港と千日前である。パイプ椅子がホワイトボードを取り囲むように並べられている。まるでハンカチ落としをしているようだ。とは言ってもまさかほんとうにハンカチ落としをしているわけではない。これからミーティングなので、早く会議室についた三人がパイプ椅子に並んで座っているだけだ。
 真正面ではないがほかのふたりがきちんと視界にはいるように座っている。端から、長堀、南港、千日前の順だ。それで、長堀がほかのふたりを見てため息をついたものだから、さすがに何かあったのかと気遣わざるを得ない。とりあえず目を見合わせて、先に口火を切ったのは南港だった。
「つるみちゃん、どないしたん」
 南港は尋ねた。千日前から見たらどちらも若いけれども、南港と長堀だと長堀の方が年が若い。加えて南港の世話になっていた時期もあるぶんだけ、南港も長堀のことには甘い。いまでも昔のまま名前で彼女を呼ぶのは、彼女が長堀の面倒を見ていた時期の名残だと思う。
 座ったままの長堀は、一度、自分の膝の上に目を落とした。膝、を見るにしてはずいぶんと首を深い角度に落としているな、と思ったのと寸分違わず、顔を上げた長堀の発言は、千日前と、たぶん南港の予測を軽々と飛び越えていった。
「昔、南港、私のこと、延伸したらきっと体も大人になるよって言ったやん?」
「言うた言うた、え、それがどないしたん?」
「……胸がな、ないねん」
 女性としてきわめて深刻な悩みであり、かつ彼女がそんなことを気にしていたなんて意外でもある。千日前は思わず南港と顔を見合わせた。
 致命的な欠陥はない。だが確かに、千日前や谷町、南港に比べて、長堀は発育がいまひとつ不良である。なんというか、平たく言えば中学生くらいの体型に見えるのは間違いない。
 ひらべったい(彼女が自分でそう言うものだから、ついついそう見えてくる)胸を見下ろして、長堀はもう一度ため息をついた。いまになって唐突にこんなことを言い出したのは、誰かに何かを吹き込まれたのかもしれない。誰とでも仲がいいが些かお節介な環状線や、ゆとりのなかのゆとりである弟の顔が浮かんでは消えるが、とりあえず問題はそこではない。
「えーと」
「千日前はずっと最初からおっきかったん?」
 自分に話を差し向けられると少々まずい。
 確かに千日前は長堀とは逆で、小さな頃から体の発育がよすぎるほどだった。走っているところのイメージも相まって、あまり自分では谷間を見下ろしてもいい気分がしない。
 だがこの手のことで、自分がこの胸に迷惑していると言えば、よけいに長堀が落ち込んではいけない。基本的に市営交通に所属するものは長堀に甘かった。生まれたときの処遇やらなにやらが比較的彼女を甘やかすようにできていたので、それは仕方がないことだったが。
「んー、確かに私はちっさいころからそれなりにあったかなー……」
 あまり認めたくない事実だが間違いないので正直に答えると、長堀はまた目に見えて落ち込んだ。ああもう、こちらも持て余しているのに、そんなふうにされても困ってしまう。自分のせいではないにしても、長堀を落ち込ませたくない千日前としては、思わず頭を抱えざるを得ない。
「やっぱり素養なんや」
 それはない。
 といいたいところだが、はじめ、ほんとうに短い距離で開業した後、延伸してほかの路線並の長さになっても、長堀の体格はさほどよくはならなかった。確かに持って生まれた可能性の話をすればそうなるかもしれない。だからといってここで肯定するのは、あまりに彼女にかわいそうである。
 返答に窮して千日前は南港を見やる。南港もさほど胸はないが、体型がスレンダーなので、女にあこがれられる細い体型をしている。現時点で長堀が目指すことができるのはどちらかといえばこちらだろう。
 南港は一度千日前と目を見合わせて、にんまりと笑った。ああ、碌でもないことを考えている、このオタクは! そんな予感はしたが、いま変に自分が口を挟めないのもまた事実である。千日前は仕方なく、南港に後を任せることにする。
 と。
「つるみちゃん、あんな、あんまり気にしたらあかんよ」
 意外に正攻法だ。
 南港は立ち上がって、座っている長堀の前に仁王立ちしている。それほど体格がいいわけではないけれども、そうやって立っている姿は、アイドルの親戚のようで、いろいろと言いたいことはあったが千日前は黙っておいた。話をややこしくしてはいけない。沈黙は金。
「胸のサイズはみんな違ってみんないいねん。私もそれほどおっきくないけど、おっきくないなりに胸張って生きてるで」
 お、なんだかかっこいい。
 隣のパイプ椅子が空いたので、千日前も腕を組み顎の下に指を当てて、ふたりのやりとりに集中する。南港だって長堀が悩んでいるのをわかっているのだから、そんなに的外れなアドバイスはしないだろう。そうなったら仕方がないから止めればいいや、千日前はそう気楽に構えることにした。
「うん、でも……」
「根拠のない自信って大事やで! 無い胸かって胸は胸や、つるみちゃんも背筋伸ばして胸張ってみ!」
「う、うん!」
 なるほど、確かに南港がアイドル然として見えるのは、そのわけのわからない自信に裏打ちされた、堂々としたたたずまいのおかげかもしれない。千日前は自分にも当てはまるかもしれないアドバイスをなるほどと思い、まるまりがちな背中をのばし、胸を張ってみた。このほうが、ぐっと見栄えがよくなるかもしれない。
 長堀も薄い体をぐっとのばした。いつも子供っぽいところを残している彼女の姿が、すこし堂々とする。なるほどこれは、一癖もふた癖もある客を相手にしている南港だからできるアドバイスかもしれない。女らしいラインは乏しくても、まだ未発達な部分を残しているだけ、可能性のある感じがする。
「うん、つるみちゃん細いから、その方がかっこいい!」
「か、かっこいい……?」
 言われ慣れない言葉に戸惑う長堀だが、胸という女らしさからのアプローチより、むしろ適切なほめ言葉だ。話もそれるし、嘘ではない。そういう方向性もあると思えば、長堀にも努力目標ができる。
 うん、長堀すてきだ、そのままでいきなよ、と千日前が口にしようと思ったときだった。
「それでも胸が気になるんやったらな、もんだらええねん、ほら」
「え?」
 思わず千日前が疑問符を呈したときには時すでに遅し。そうだった、こいつやっぱりオタクだった……! という千日前の焦燥と、南港の見るからになぜか手慣れた指先が長堀の胸元に延びるのがほぼ同時。
 さらに、がちゃり、扉を開ける音がして、ああ、いまミーティング前だった、ととっさに思い出すのと、赤ぶちめがねがこちらをのぞき込むのがほぼ同時。
 それから、南港の手が長堀の胸をすこし下からすくい上げて揉み込むのと、驚いた長堀の悲鳴と、御堂筋のすこしおくれた、え、という疑問符が、やっぱり同時。
「な、なんこうさんっ!!!」
 驚いた長堀が南港をおしのける。
「なんやつるみちゃん、ちゃんとあるやん。揉んで育てたらええのん!」
「だ、だからって、いきなり揉むのはなしです!」
「ええやんーちっちゃいころはあんなに南港さん南港さんって後ろからついて回ってくれてた仲やん? 胸くらい減るもんちゃうよ、これから増えるんやから」
「ふ、ふえ……」
「なんでそこで流されるかなぁ」
 思わず千日前が首を傾けてこめかみあたりを支える。ばたん、と扉が閉じる音がした。御堂筋が部屋を出ていったらしい。
「え、なに?」
 自分のことに精一杯だったらしい長堀が、いまさら扉の音に気づいたらしい。このイレギュラーをいきなり受け止められる御堂筋もそれはそれでいやだな、と千日前がフォローしようか迷ったが、南港はより男に辛辣だった。
「こんなことくらいで娘にショック受けてるようじゃ、お父さんはまだまだやな!」
 いや、そういう問題でもない。
 とは言っても、長堀は素直に聞き入れて胸元に手をおいて首を傾げている。まだ若い長堀にそんなことで悩まなくてもいいと言い聞かせてやるのはどうしたらいいものか。
 いや、むしろまだ当人は良いとして、これはいまごろ御堂筋は廊下でショックの余りに頭を抱えて座り込んでいるのではないだろうか。自分が廊下に出ていって励ますのが適切なのか、誰か次に廊下にきたらそれとショックを分けあってもらうのが適切なのか、千日前は思わずため息をつく。すると、せっかく張っていた背筋がだらんと弛緩して胸が垂れる。
 南港は見逃してくれなかった。
「あかんで千日前、巨乳は気ぃぬいたら垂れるよ!」
 余計な世話だ。

おっぱいおっぱい。
20101008