御堂筋の天井は矢鱈に高い。
 見上げれば、肌に馴染みきった気になっている眼鏡が改めて、すとんとした重みを御堂筋の鼻の骨にかけてきた。伸ばした手は既に届かず、あ、と声を思わず上げたところで、すらりと伸びた腕が二段上の階段から紐を掴んだ。
 ヘリウムの詰まった風船は辛うじて、御堂筋の手を滑りぬけるでもなく、谷町の手に留まった。彼女は僅かにほっとしたように笑い、まにおうた、と小さく言ってから、階段の下で、やはり、あ、と叫んだきり風船を目で追って固まってしまっていた少年のところまですべるように降りる。
「気ぃつけてな、電線、危ないから」
 少年は背の高い女性(しかも交通局の腕章までついている)を一度ぽへらと見上げたあと、こくり、と一つ頷いて、母親に手を引かれていった。母親も谷町にぺこりと頭を下げる。
 御堂筋にとって天王寺は南の折り返し駅である。このあたりの御堂筋の主たる駅の天井が矢鱈に高い駅の一つでもある。学校が集中しているため学生が多く、目立たない交通局の制服を着た長いスカートの谷町は、一見すると女学生のようである。
「ありがとう、谷町。追いつかんかったら停電するところやった」
「気にせんで。でも高すぎるよ、この天井、私、怖い」
 谷町の言葉は意外なもので、御堂筋はもう一度、風船が一路向かっていた天井を見上げた。シャンデリアを名乗るのにはおこがましい蛍光灯の造形物。ぶらさがっている天井は確かに他の誰のそれよりも高い。かつて見比べた東京の地下鉄にもこんなに高い天井はない。天井あたりによどむ空虚が、昔から御堂筋の背筋を上から引っ張るように伸ばしてくれていたのだ。御堂筋には馴染んだ高さだった。
「そんなもんか」
「そんなもんよ」
 御堂筋も階段を降りて谷町と同じ高さに立った。谷町は黒い髪を丁寧に伸ばしている。佇まいも背負った色を反映して大人しいものだった。それでいて淡々と話す姿は、昔から御堂筋にとって頼りになるものだった。
 幼かった頃の彼女の見た夢のなかに自分が存在していると言うことが、彼女と自分の決定的な溝だと思う。そう、あの、頼りない夢。いまよりずっと恐れるものが少なかった、そういうものはすべて受け止めてくれる小さな手があった。
 むしろあの時代で線を引くならば、自分と記憶を共有できるのは四つ橋だけだ。そういう意味であれだけは特別だ、と御堂筋は知っている。
「あの子が怖がってるのなんか見んかったね」
 まるで見透かしたように彼女が言う。艶めいた黒い髪が後ろで揺れる彼女は、その腕章の色と妙に清廉とした佇まいのせいでどうしてもどことなく如来像のような女性的な印象を忘れていない。計画が早かったのに実現が遅かった彼女の歴史が育んだ、一歩引いて物を見る性質が、どことなく御堂筋の頼りになるのかもしれない。
「どの子や」
「私が御堂筋のコートの裾を握るから、自分がそんなことでけへんかった、私の可愛い弟のこと」
 慈愛を注ぐならばどうか彼だけではなく、自分にもそうして欲しいとは思うのだが。だが彼女の整った微笑を崩すのもどうにも気が咎めて、御堂筋は素直に頷くだけ頷いておいた。

 自分と中央はそれほど共通点はない。
 なにせ中央の車両はいろいろと混成されていて、挙句に山際まで行けば他の路線に乗り入れているのである。東京ならばともかく、互いに我が強くて折れることを知らない路線たちのあつまりである京阪神では、地下鉄と私鉄の乗り入れと言うのはとんだ快挙である。
 しかも中央の線路は、自前で海まで見える。かといって山も見える。根本的に大阪市内ならばそのどちらも見るのはたやすいが、かといって自前の一本の線路で見るのはたやすくない。
 四つ橋には中央の穏やかさ、誰とも話すことの出来るところが、とても好ましいものに見えていた。自分と来たら開業は二番目だというのに、このひねくれた性格のせいで素直になることの一つも容易くない。中央が近鉄に見せるような、信頼しきった笑顔なんてもってのほかだ。
「気にしてたん」
「当たり前や」
 中央は目を丸くした。四つ橋は不機嫌に吐き捨てた。コミュニケーション能力不足を気にしないほど自分は無神経だと言うわけではないのだ。中央は、そう、ともう一度感心したように言った。あまり良い気分ではない。
「おかしいか?」
「何もおかしない、ちょっとびっくりしたんや」
「何が」
「あんまりにも四つ橋が、自分の努力認めてやらんから」
 は、と問うまでもなく、中央は座っていたベンチから立ち上がって大きく背伸びをした。その肩に乗ったぴたポンは妙に彼が据わりがいいらしく、そこから動こうとしない。最近の中央のトレードマークのようにすらなっている。元気だしやー、なんてあの声に言われると腹が立ってくるが、かといって肩から払い落とすのも中央が悲しむのでできなかった。
 見慣れない近鉄の白い車両が目の前のホームに滑り込む。そうか、ここは彼のホームだった。ラインカラーが入っていても、新20系は一瞬だけ違和感を覚えないものだ。だから千日前のホームになんかいると、自分のところとさして変わらない眺めにほっとするものだ。だが、カラーリングから何から何までまるで違う近鉄の車両は、さすがの四つ橋にも、おや、と思わせた。
「こんなふうにわざわざ相談してくれるのかって」
「相談なんかしてへんやろ」
「心配せんでも、誰もいまさらそんな四つ橋の愛想なしで嫌いになったりせんし」
 誰も、ちゃう、と四つ橋はほんの一瞬思った。誰も、に興味があるわけではない。心配しているのは一人きりだ。かといってまさかそんなことを人当たりのいい彼に、聞けるはずもなかった。愛想がないのだって、いまさらどうにかできるものごとではないのだ。ただ、ほんとうに気にしているのはひとり。こうして周りに心配を振りまきながら、それでも四つ橋がほんとうに気にしているのはたった一人。
「髪切ったら御堂筋寂しがるで」
「、なん、で」
「自分ら、似てるからちゃう?」
 そもそもの相談を忘れていなかったらしい中央にひらり、手を振られて四つ橋は思わず、頭を抱えた。近鉄の白い車に乗り込んだ彼がたぶん手を振っているが知ったことではない。髪きってもいいと思う、っていうか俺って愛想ない? そんなとっちらかった疑問に答えて言ってくれる律儀さが、彼のまめさを支えているのだろう。ああ、ほんとうに、よくわかった!

オムニバス1。
20110315