自路線の天井が高いことを指摘されたあとから千日前のホームに来ると確かに薄暗いという感は否めなかったが、それをはっきり口にするほどさすがの御堂筋もデリカシーがないわけではない。だいたい彼女のホームは四つ橋のそれと似たり寄ったりだから、絶対にそんなことをいえるはずがない。物事のついでに立ち寄って顔を見た彼女は、はあ、と御堂筋の抱える案件など知らない顔をして、仕事だけを受け取った。
 右手に書類を抱え左手でウェーブのかかった髪を払う彼女は、埃っぽい空気の中で、谷町と別の種類の美貌を持っているものだな、と御堂筋は改めて実感した。
「髪を切るってどんな感覚だ」
 不意に尋ねたのは、彼女のその髪が蛍光灯に反射して光ったからだった。
 御堂筋にとってだって、ごく些細なことだ。これだけ綺麗な女性を抱えているこの空間で、なぜよりにもよってあれに気をかけているのかという、気がかりだ。実際のところ、御堂筋がほんとうに四つ橋を気にかけているかといえば、それさえも定かではない。あれは、どうしたって御堂筋に手を焼かせることをよしとしないところがある。
 手を焼かせないために隠し事をしていると言うのならば、隠し事を暴くのと、本音をフォローするので二度大変なのだ。手の焼き方は二度手間なのだが、御堂筋はわざわざそんなことを四つ橋に言うこともなかった。いつか気付いてくれるのかな、という期待と、言わない方が互いに幸せなのかもしれない、という恐怖からである。
「うちはそんな盛大に髪切ったことないからわからんなぁ」
「そうやな、確かに千日前ばっさりいったことはないわな」
「そうそう、こまめに切りに行ってるん、自分で切ったりもするし」
「器用やな」
「四つ橋の前髪も切ったげたりするんよ」
 御堂筋はぐっと回答に詰まった。暗いホームで滔々と笑う彼女はやっぱり表情の作り方が整っているのだなとつくづく思った。谷町の内に持つ経験と環境に基づいた無表情とは異なった、千日前の外に取り囲まれた環境の作らせる浮ついた表情。ときどき感じ取るその特殊な生い立ち、御堂筋も知らない人の世を知りすぎた表情。
 知らない女に落ちるのと、よく似ている。
 けれども、知らないというのがおこがましいくらい、知りすぎている相手。
 千日前に誰かの話をしているのかを見透かされるのは別に不愉快ではなかった。いまさら誰が誰の話をしているのかなんて、うっすらとならばわかりあえるのがこれだけの年月であり、これだけお互いを見てきた縁のなせる業でもある。
「で、そんなん聞いてどうするん」
「……頼まれて、切るんか」
「長いって気がついたら声かけてあげることもあるし、四つ橋が自分から気になるって声かけてくることもあるし。大体あんた、北急ちゃんに自分がさせてること、四つ橋がしてると気に食わんの」
「そうかもしれん」
 自分の感情なんてものがあるならば、こんなに波立ってくれるのは些か不自由だった。常に落ち着いていなければならないと自分を律してきた御堂筋にとって、誰かの存在に心をゆらすと言うことさえも今までないはずだったのに。
「ひとつ頼みがある」
「なに」
「近いうちにあれが髪を切ってくれと頼みに来たら、断ってくれないか」
「自分で髪切らんとってって頼めばいいのに」
 呆れ顔で千日前は肩を竦めた。あの細い肩に揺らめくウェーブの僅かに焦げ茶の髪の向こうにさえ、見透かすことの出来ない自分の感情のぶれ。どうして千日前が自分の持ち込んできた案件が四つ橋のそれだと気付いたのか首を捻ったのは、さらにそのあとだった。

「あれ、珍しい」
 不機嫌に中央を見送ってから、結局一台後の24系に乗り込んだ四つ橋の目的は、ちょっとした気分転換だった。別になにも仕事から逃げたかったり、あのひとの路線と被らないところに行きたくなってしまったわけではない。
 確かに四つ橋がわざわざ堺筋のところまで出向くのは珍しかった。
 生まれに性質に、どうしても堺筋は地下鉄の一員と言うよりも阪急に組み込まれているように見えてしまう。だから四つ橋もわざわざ堺筋と話に来ることさえも珍しいのだ。しかも四つ橋と堺筋は共に南北を繋ぐ路線であるため、交差する駅もない。放っておくと丸一日会わないことも普通だった。
 この駅にきょう堺筋がいたのも四つ橋にとっては偶々だったし、まあでも誰かと話したかったので丁度いいかもしれない。それくらいの認識だった。
 冷静になると結構なことを言い捨ててきたものである。なんというか、女々しい。あんな捨て台詞を吐いてきただけに、もうこの場で堺筋に鋏を借りてこの尻尾を切り落としてしまおうかと思うのだけれども、それには些か勿体無いという程度に伸びた髪を見て躊躇うのだ。それほど都合よく伸びてくれるわけではなかったわがままな髪を適当に梳いて、そういうのが得意な千日前に頼んで整えてもらって、それでここまで来た。
 何のため?
「まぁた何か溜め込んでるん」
「まさか」
 堺筋は中央のしたたかさを取り除き、やわらかさを注いでちょっと最後にスパイスを加えたような反応をくれる。そのスパイスに何か答えがあるかもしれないというのが、浅はかな四つ橋のいまの願いなのである。
 自分の口で吐き捨てた宣言ながら、四つ橋は御堂筋に背を向けた瞬間から既に、彼に許可も得ずに自分の髪を切り落とすなんてできないことは良くわかっていた。それができるというのならばとっくに正直に彼に対して思っていることを告げているか、とっくに彼に対する思いを断ち切ることが出来ていたのに決まっている。
「わざわざこっちまで出てくるなんて、そういうことかな、って」
 堺筋本町の通路を当てもなくぶらついていた四つ橋を見つけて詰め所に引っ張り込んだ堺筋は、頼んでもいないのにインスタントのコーヒーを出してくれた。こんな甘い顔をしておきながら、彼の詰め所にはミルクの類も砂糖の類もないのだ。
「うまく、好きだっていえない」
 どうせ地下鉄の誰もが二人の綱渡りを知っている。正確に言えば四つ橋が一方的に追いかける滑稽な一人芝居だ。茶番と言ってすらいいかも知れない。あの髪の束を、幼い目で見上げたあのコートの裾を引く代わりに、四つ橋が吐き出せる、辛辣とも言える、しょうもない意地に縁取られた言葉。
 四つ橋は、棘を投げつけて、いつかほんとうに彼が見捨ててくれるのを待っている。
 けれども御堂筋が四つ橋を見捨てるなんて、できるわけがない。彼が動脈で自分が静脈である限り、袂を分かつなんて出来ない。ふたりはいつだってひとつで大阪の人を運んできた。いまさらばらばらになるなんてできない。
「別に、言わなくてもいいんちゃう。こんだけ四つ橋がアピールしてて、分からん方が悪い」
「え、アピールとかしてへん」
「自覚が無いのも考え物やね」
 北に伸びる、あのマルーンと共にあるだけはある。言葉をうまく隠すことが出来るのはあの路線の持つ風格によるところだとは思っていた。堺筋にまでその性質がいつのまにか伝染していたのは、四つ橋の知ったことではないが。
 とにかく四つ橋にしてみればそんなことを言われる筋合いはないし、アピールなんかしていないつもりである。っていうかアピールってそう見えるのか、不意になんだか恐ろしいことを言われていることに気づいてしまったような気がして、四つ橋はマグカップを右手に持ったまま、左手を思わず頬に添えた。顔が赤くなっているような気がしたのだ。
 不意に堺筋の携帯が鳴った。はっとして四つ橋はマグカップをごとんと置いて、ご馳走様、と身を翻して返事も聞かずに逃げ出した。ちなみに四つ橋の携帯電話は現在サイレントに設定されている。
 思えばあれは別に御堂筋のコールではなかったのかもしれない。
 だが、動揺している四つ橋にはどうしても、その場にいられなかった。

オムニバス2。
20110315