「お父さんはみんなが心配なん?」
長堀はそう言いながら笑った。心斎橋の詰め所には絶え間なく花が置いてある。彼女は御堂筋に背を向けて、シンクで花の水を入れ替えているようだった。無駄だといってしまえば無駄に過ぎないそれを彼女の好きにさせているのは、あとから見れば結局彼女を数年間もひとりぼっちにしてしまった責任感と言うやつのせいだろうか。はたまた、誰にとっても久しぶりに出来た妹だったからだろうか。
彼女自身は御堂筋のことを兄とすら扱わずに父親呼ばわりである。もっとも開業年数で見比べたらまったくもってその通りなので御堂筋には何も言えなかった。半世紀ではとどまらない差異は、ものの見方、考え方をころっと変えてくれる。
最近大きな手入れのあった彼女のホームや車両、そういうののおかげで彼女は総じて機嫌が良かった。努力が認められなくては、こうして手の入ることもない新しいもの。彼女の笑顔を見るのは、地下鉄の全員が好きだった。まったくもって彼女にだけは甘い路線が多いこと、多いこと。
「誰がお父さんや」
「でも、みんなが心配やろ」
「そらな」
「でも、珍しいこともあるね」
「何が」
「御堂筋が変って」
女子の情報網あなどるなかれ、と笑いながら、僅かに手を休めて携帯電話を掲げる彼女の携帯には、いかにもまだ年若い女子らしい繊細な飾りのついたストラップがぶら下がっている。ああまったく、情報網を侮ってはいけない。御堂筋はこれまで市営交通局の誇る女子達にどうしようもなく狼狽した姿を見せてきたのだから、しかたがないのだろう。
「何があったん」
父親にそんなことを言える娘があってたまるものか。
何があったのだろうか、と御堂筋は一度首を捻った。何があったのかといえば、ただ、四つ橋に拗ねられたと言うことだけだった。よくあることではないが、珍しいことでもない。ただ、彼の捨て台詞が、気に食わなかったのだ。
同じような髪形してるのがあかんのなら、髪切るから。
ダメだなんて言った覚えもなかった。向かい合えば鏡あわせとなる彼の髪の裾を見て、綺麗だな、と呟いただけだった。同じような見た目の自分たちだから、違うところは目に入る。無造作に伸ばしているだけの御堂筋よりも四つ橋の髪は整っている。それを褒めたかったのだ。
「なくなるのが怖いものって、あるねんな」
「そんなん、当たり前や」
長堀は思ったよりも素早く、断じ切るような口調で言った。それが意外で御堂筋は顔を上げた。ちょうど花瓶に花を生け直した彼女は笑った。こちらを向き直り、胸元に花を持ち、笑う彼女はまもなく開業二十一年になるとは思えないあどけない少女だった。
「好きなもんにちゃんとそう言われへんのは、大人の悪いところ?」
的確に彼女はふたりの問題点を指摘する。
御堂筋は苦笑を浮かべるしかないのである。
その場から逃げ出したものの、とりあえず行くあてもない。かといって自分たちの路線に向かうのも厭だったので、四つ橋はもう一度中央に乗って、より東側へ向かった。
といってもある程度から先に抜けきるのも後が怖い。うっかり近鉄に乗り入れて生駒まで行ってしまえばたぶん帰る気を失くしてしまう。結局四つ橋は、一番東側の交差点で中央の車両に別れを告げた。うん、嫌な奴のところまで来てしまった。
この際今里筋で南の端まで行って、千日前に乗ってこっそり帰ろうと心に決めて、実際に今里駅まで行くまでは良かった。だがそこに、奴がいたわけである。
「あれ、四つ橋さんなんでおるん?」
「うわ」
思わず声に出して不快感を示す。
なにせ小さい車両なのに近頃の若者らしく一丁前に背が高いのだ。四つ橋はあまり背が高いわけではないので、あのミニリニアに体格で負けていると言うのは実は立派なコンプレックスなのである。
「……散歩や」
「暇ですねぇ」
返事に困った挙句に咄嗟についた嘘を聞いても、今里筋はのほほんとしていた。嘘といえば嘘にもかかわらず、暇だといわれるのに些か腹が立ったけれども、これを真に受けて彼を殴れば余計に負けた気になるだろう。
いけない、このペースに巻き込まれると、ついいらいらしてしまう。自分のことで手一杯のときに、ほかの路線の面倒まで見ていられない。
「お前がちゃんと走ってるか見に来たけど元気そうやな、なんば戻るわ」
「ああ、千日さんが、御堂筋さんが四つ橋さん探してたって」
「……言ってたのか」
「ええ、なんかしたんでしょ?」
お前じゃあるまいし、というのは言葉にならなかった。彼が自分を探してくれていると言うだけでうれしいと思える自分の単純さに嫌気が差した。彼に絡めば、自分には嫌気が差すことばかりだ。
「……なんもしてへん」
結局答えられたのはせいぜいそんなものだった。
どう聞いても嘘にしかきこえないだろう。現に今里筋はうっすらと笑って、四つ橋さんったら悪い子やねぇとか言う始末。いろいろと自覚はあるのだろうか、と説教しようか迷って、やめた。自覚が無ければ、誰かの伝言を伝えることもまともにできないだろう。
「どうせ何か言って逃げてきたんやろ」
「なんでそんなこと」
「経験則ですー」
悪戯げな表情で笑う子供にそろそろ真顔と言うものを教えてやらなくてはならないと思った矢先、ぐ、と距離をつめてきた今里筋に咄嗟に肩を引いた。取り残された髪の束を彼の手が浚う。
「せっかくのおそろいやねんから、もっとなかようしたらどうです」
「おそろいやないし」
「意識してんの、顔赤いよ、四つ橋さん」
片方の手で髪の裾をつかまれたままで、もう片方の手で額に手を当てられて、四つ橋は本能的にぞっとして今里筋の体を突き放した。その距離感が許されるのは御堂筋だけだ、と一瞬思ってから、それから、え、と自分でも理解できないことを感じてしまった自分の思考回路を殴りたくなった。
「ああごめんなぁ、御堂筋さんじゃなくて」
「もうお前煩い!」
分かっている、よく分かっているから、少し黙ってくれないか!
20110315