昔の話を何も知らないというのは、よくもあり、悪くもある。
あれだけ遊びほうけていてまだどうして眠いのかと不思議に思うのだが、今里筋がこてんと車両基地の床で寝ているのを見つけてしまった長堀としては、捨て置くわけにも行かなかった。場所は鶴見の車両基地、どうして椅子やもう少し寝るにしてもまともな施設があるのにもかかわらず床に直接寝ているのか真意が読めない。
もっとも今里筋の考えていることなんてたぶん誰にも分からない。長堀なら近いから分かってくれるんちゃう、なんて今里筋は言うけれども、無茶を言うな、と長堀としては思う。だいたい、お前、人に自分の考えを分からせる気がないだろうと。
今里筋は何故床に寝ているのだろうと考えて、長堀は彼の手元を見た。なるほど、事業改善計画書。それを手にしたまま、どうしようもない、と床に寝転がって、そのまま眠ってしまったのだろう。叱られた理由が分からないでふて寝している子供と一緒だ。
難しいのは同じだ。
長堀だって開業して数年、京橋と、花博の終わったあとの鶴見緑地を結んでいるあいだなんて、どうしようもなかったのだ。いまだってけして余裕があるわけではないけれども、努力は必ず実を結ぶのだと、彼よりもすこし長く生きている分だけは思う。
「今里筋、こんなとこで寝てたらあかんよ」
長堀は精一杯お姉さんらしい声を意識して言った。今里筋にしかない駅というのがたくさんあるから、そちらに逃げていけば誰にも出会わずに済んだのに、こういうふうに車両基地に帰ってきて、まるで長堀に見つけて欲しかったような迷子の素振りに、長堀は少し嬉しくなったのだ。
「ながほりー?」
猫かわいがりされていた長堀は他の路線に対して敬語を使わないが、今里筋がふつうに呼び捨てにするのは長堀だけのような気がした。そういうことで人との距離を測るのは、どことなく卑怯も知れなかった。
けれども他よりも遅く生まれた自分達は、どんな風に周りから見られているかを意識していないと、いつだって怖いのだ。千日前のように、自分のポジションを分かって黙っているのでもない。もっと根本的に、誰のふところにどこまで潜り込んで良いのか、わからない。
そう言う意味で今里筋と長堀の間には探り合いがなかった。長堀が徹底的にそう言うのをしなかったのもある。自分が満足に一人前の路線になることが出来ているわけでもない長堀だが、それでも今里筋にだけは似たような思いをさせたくなかった。
「起きたん?」
「うん」
「寒かったやろ」
春めいてきて、外には桜の花がひとつふたつぽつぽつと咲き始めた。そんな時期ではあるけれども、車両基地なんてあたたかなところとは到底言い難い。金属に囲まれて、とりたてて空調もない床で丸まっていては、今里筋の体が冷えてしまうのではないだろうか。
「長堀待っててん」
「こんなところで?」
待つと言って、長堀は思った。もっと待つべきところはあるだろう。とりあえず交差駅の蒲生四丁目だってあるのだし、長堀だって昼間は必ず車両基地に来るというわけではない。
なんでここなんだろう、と思って長堀は今里筋に目線を合わせるためにしゃがんだ。今里筋は寝転がっていた状態から半分起きて、髪の毛についた埃を払った。なんだか明るい髪と仕草が相まって猫みたいだ。
「そう、長堀、あんな」
そう言って生意気な猫は長堀のサイドテールを引っ張った。わ、という声が思わず漏れたけれども、構わずに今里筋は乱暴に長堀の頬に手を添えた。そんな乱暴さじゃまだまだね、と言うか迷って、迷っている間に今里筋が手を添えた頬に、そっと唇が触れる。
え、と長堀は小さく尋ねた。
「なに?」
「ちゅう」
「なんで?」
「お誕生日おめでとう」
ああ、と長堀は納得した。納得してから、なんでこんな若造に頬とはいえキスをかまされたのかと目を見開く。
「なんでまた」
「昔御堂筋が四つ橋にしてたから、真似っこ」
「のぞいたん? やらしいなぁ」
「いつか大人になったらしたろうと思ってたん」
「へぇ」
今里筋が大人だなんて聞いて呆れる。だが、長堀はもっと大人でなくてはならない。大人たるもの、キスのひとつで動揺してどうする。だいたい唇ではなかったのでいちいち騒いでもしかたもない。頬にキスされたことならば南港にだってある。
「でも今里筋、誰にでもやってるんちゃうやろな」
「そんなわけないやん。ミニリニアの縁」
今里筋は過分に近すぎる距離を意識させないで、長堀の前に右の小指を立てた。おっきくなったら一緒に走ろうな、そう言っていた長堀の約束を今里筋は違えなかったのである。
仕方なく長堀は小指を交えた。
「あんまり誰彼構わず、場所も構わずやったら、この指どうなるか、わかるやんなあ?」
「いやや長堀こわい」
笑う子供は、すこしだけあどけなく、それでも成長したらしかった。
20110320