水面下フラクタル

 少し歩かなければ同じ名前の彼の駅に到達できないと言うことや、自分のホームの方が彼のそれと比べたときにひどく真っ直ぐであること自体が、今更苦になるわけがない。むしろ、苦になるわけがないから、こうして何年もこのシチュエーションの周りをぐるぐると歩き続けているというのだろう。
 こういったものは秘めてこそ花、口にしたらきっと最後、無くなる部分の方が多いと知っている。それだけ長く生きてきたからこそ、それよりも先を敢えて暴きたいと思っているのだし、これ以上踏み込むことは危険だとも知っている。もうすこし余分に生きて開き直れば、楽になれるのだろうとは思う。その、もうすこしに、ぼんやりと手を伸ばしながら、今日も懲りずに足掻いている。
 アルコールが脳味噌を馬鹿にするのか、或いは元々馬鹿な脳味噌がアルコールで表立って出てくるのか、知ったことではない。ありとあらゆることがぐるぐると回るなかで、幾度も浅草は確認する。自分の立ち位置、相応しい距離。確認できないものに縋り付いてはいけないということ。
 いましてはいけないことは、何かと。
「もーめんどくさいー。酔っぱらったおっさんなんて何も楽しくないでしょ?」
「悪かったな」
 かわいそうなことに三田は、正体をなくすような酔い方が出来ない。ある程度までは気持ちよくなって、そこから急激に、がくりと気持ち悪くなる、のだそうだ。浅草は比較的アルコールの分解に苦労をしないので、三田の気持ちを分かってやることが出来ない。だから浅草が飲もうと言ったって断ってくれても良いのに、彼はよほどの用事がない限り、浅草の誘いを断ったり、しない。
 実に性が悪い話だ。
「飲みたくないなら断ってくれていいのにー」
「断りたかったら断ってる」
「可愛くない!」
「可愛いなんて言われても困る」
 全くだ。いつも吸っている甘さもない煙草の匂いと、分解できていないアルコールの沸点、そして加水分解の副産物と彼の首元から立ち上る香水の匂い。全く、地味な公務員の立場で香水なんて色気を使わないで欲しいと思う。
 一番どうしようもないのは、そんなものに当てられている自分のほうかも知れないが。
 自分の肩に体重を預けているのはいい歳になっても恋のひとつも外でしてきてくれないどうしようもない同僚で、それを許して、あまつさえ喜んでいるのは自分だ。外なんか都合良く見てくれたらいいから、普段は、自分を見ていて欲しいと思うこの気持ちは、こじらせているだけタチが悪い。
 自分達がこんな執着を何年繰り返しているのか数えるだけ馬鹿げている。彼の考えていることが分かったこともないし、分かれば多分苦労しない。その代わりに、知りたいとも思わないのだろう。
 どれだけこじらせたのか考えるだけも馬鹿馬鹿しくて、それはもうどうしようもないくらいにこれだけの期間見捨てられないでいるのだから、重症だとは思う。
 何せ、何を見捨てられないって、三田を見捨てるなんてできるはずがないのだ。
 そうすると、たぶん、自分の趣味、落ちた恋。
 腕にぶら下がっている彼が言う。
「大体お前も他あたれよ」
「他って?」
「飲む相手なんて山ほどいるだろ。接続先も乗り換えでも」
 ふてくされた口調は、たぶん、酔いつぶれたことを責められていると感じているのだろう。どちらかといえば責めたいのは自分の趣味の方だ。よく見てみろ、このかわいげのない中年男性同士の惨状。
 春休みの夜は、社会人にとっても夜が更けて、大学生はまだこの辺りに戻ってきていなくて、昼間の車の多さが嘘のように静かだった。都営の他線も、メトロも、ここにはこない。JRはものの五分も歩かないところに乗り継ぎ駅があるけれども、よもや誰も、こんなところであの二人が夜を過ごしているなんて思わない。或いは、二人であることを見抜かれていたとして、不埒な行為を働くとすればそれは互いにではなく、誰か他の女の子に、だろうと思われることだろう。
 ああ、ほんとうに、そうならばいいのに。
 よりにもよって、こうでもなくても、いいのに。
「みーたんったら分かってるんじゃない」
「何を」
「俺だってもうちょっと選べる立場なのよ」
 こう見えて、と付け足すと明らかに三田は顔をしかめた。もともとの顔立ちにアルコールで気分が悪そうなところ、これ以上顔をしかめることが出来ることが驚きだ。
 実際のところ言い聞かせているのは自分に、だった。どうにでも生き方を変えられることは、他の路線を見ていても思うし、自分の乗客を見ていても思う。自分だってなんだかんだと無理矢理信念やら軸やらを持たない振りをしているおかげで上手く生き延びていると思うし、その中で、では果たしてこれにだけ執着する意味はあるのかと言われたら。
「可愛い女の子の方が良いに決まってるだろー」
 間違いなくそうだと思うのだ。
 けれどもそう言えば肩に掛かる重みは増えるし、甘えることが苦手なままこんな見た目にまで育ってしまった彼はいっそ、表情を隠してしまうのだ。年を取ったがばっかりにそういうことばかり上手くなって、自分達は一歩も動けないまま夜の街を歩いている。
「だったら」
「でも俺は同僚思いだから、こうやってみーたんを誘ってるの!」
 何か言われる前に、口調を崩さずに押し切った。彼に言葉を話させるほど、否定しなければならないことが増えて、浅草の立場は悪くなる。追い詰めたくなんか無い。何かを暴くのだってごめんだ。これ以上に近づいたら、どこで満足だというのかと言われたら、なぜかそれが想像できないのだ。
「……面倒なやつ」
「あら、褒めた?」
 彼が噛み殺した言葉を知りたいけれども、矢張り、知ることが出来るならば、はじめからそこに落ちて出られなくなることもない。皮膚のずっと下で物事を考えることは、地面の下で走ることによく似ていて、どうやら自分達の得意事だった。そういう意味でだけは、こんな面倒な形でこの世に生を受けたことに、感謝しなくてはならないのかも知れなかった。
AI書いてみるからとりあえず乗り鉄に出掛けたときの三田駅に衝撃を受けたので。ピクシブより再録。
20110904


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