仰いだ天井を見て、はて、とみずほは思った。
こてんと器用に転がされて、一拍遅れてから、ああ、いつものじゃれつくと例えるには随分と重苦しいあれか、と理解した。
考えてみればUFJの部屋に上がることが初めてではなければ、こうして彼に転がされていることはほぼ百発百中と言ってもいい。それでも毎度毎度同じようなことを繰り返しているのは、学習しないな、とみずほは思った。別に嫌だからと言うわけでも、良いからと言うわけでもなく、そんなことに興味はない。
『飲みに行きませんか』
そういって着信が入ったのは綺麗に17時、そんなにあっさりと銀行本人が仕事を切り上げて良いのかというタイミングだった。みずほはちょうど外回りの仕事を終えて直帰しようかと迷っているところで、ほんとうにそうやってうまくタイミングを見計らって連絡を取ってくる彼のことを何だろうかと量りかねた。
けれどもそんな疑問をぶつけたところで明瞭な答えが返ってくるわけでもないので、みずほはどうやって断ろうか考えて詰まった。断る理由がないのに断ることは申し訳ないような気がしたが、おいそれと彼に身を委ねると碌な目に遭わないと言うことも経験上よく知っていた。
みずほの沈黙を見越したように彼は笑う。
『何もしませんよ、見附に良いバーがあって』
彼は見た目の割に店の好みは断然に落ち着いていて、彼の言った地名と、彼の示した可能性を考えればきっとさぞ良いものが出てくるのだろうのと想像は付いた。けれどもみずほはその性質や見た目の割に外で飲むことが余り好きではなかった。落ち着かないのだ、一口で言えば。仕事や自分のつとめである事業に幾らでも精神を費やすぶん、みずほは身の回りは静かに整えておきたいと思っていた。あまり外食を好まないのは、たぶん他人の作ってくれたものを食するのが落ち着かないからだと、自分ではそう整理していた。
「余り気が進まない」
『お忙しいのですか?』
「そういうわけではないが」
『外食が、お嫌ですか?』
UFJは割合そういったみずほの性質を見通しているので、ことさらそれを否定する気がないみずほは頷く代わりに沈黙を寄越した。少しだけ間をあけて、そうしたら、とUFJは言った。
『オレの家に来ます?』
いわく、取引先の地方銀行から良いヴィンテージのワインを貰って、持てあましていると言うこと。デパートによって簡単なおつまみを買って帰るから、よろしければ何か作りますけど、ということ。さきほど外に行くのを躊躇ったみずほの嫌なことを、すべて洗い流してしまうような魅惑的な提案に、どうしてみずほは素直に頷いてしまうのだろうか。
ということで、彼が最初に提示したバーのある駅で待ち合わせて、素直に彼の家まで導かれていく。高層ビルのあいだをさほど抜けず、明らかに人が住むような高みではないところ、彼の部屋は高層マンションのこれまた高層階にある。明らかに時代錯誤なその部屋をみずほは好いていた。
浮き世から、遙か遠くなる。
都会の真ん中で、たくさんのビルを見下ろしながら、みずほはぼんやりと、宛がわれる酒とつまみを嗜んでいた。UFJがどうしてこれほどみずほの世話を焼きたがるのかはよく知らない。好きならば、好きにしてくれて構わないとも思うし、もっとみずほの性格を読み取って正しく扱って欲しいとも思う。
あらかたの事情を知っているニュース番組を見るともなしに眺めていると、不意にUFJの指先がみずほのこめかみあたりから耳にかけてきちんと整えた髪に指を差し入れて、そしてゆるくほぐした。ああ、指が来た、とみずほは思う。
その意図を理解する努力は放棄して。
「オレのことなんだと思ってるんですか」
「……二番手?」
尋ねられたら、まず寄越すことのできる答えはそうだった。
UFJはみずほの前に置いてあったリモコンでテレビの電源を落とすと、髪をそっとやわらかく引いてみずほの顔が自分のほうを向くように促した。逆らう気もなくてみずほは従う。赤茶けた髪と、日本人らしい黒い目。彼には相応しくないほど長い睫毛が、ふわりと瞬きに従って上下する。
「それ以上でも、それ以下でも?」
そんじょそこらの酒量で酒に飲まれたりするようなみずほではないが、UFJの真顔が目の前に迫ってくると少しばかり雰囲気に揺らされるのは感じた。どうしたら彼が、考えていることを、自分に対して抱いている感情を、消化してやれるのかがみずほにはわからない。彼は自分を買いかぶりすぎだと思うし、けれども彼に屈することはあってはならないだと、第一の銀行として思う。
「私には、まだよくわからない」
「まだ?」
みずほの言葉を面白そうに聞いたUFJは、そのままみずほの体をソファに押し倒した。そのくせそのやさしい手つきはまるでみずほの背中を痛める意図はなく、UFJの手がみずほの顔の脇に突かれるのを、自分に迫る事柄とまるで無関係にみずほは受け止めた。
「これだけ、ずっとお誘いしてるのに?」
笑う表情と裏腹の声が、目が、引き絞られて伝わる瞬間をたまらなく思う。
もしかすると、と思う。
とっくにトップに立って揺るぎないみずほにとって、彼を誑かすというのは、そこいらの刺激では得られないものを再確認する作業なのかも知れない、と。仕事ばかり、自分の心を麻痺させることが当然になっているみずほにとっては、そのUFJのぎらぎらした目がいっそ改めて何かを感じさせてくれるのかも知れないと。
白い天井を仰いで、初めてとは言い難いその光景に、少しの疑問はすぐに霧消する。
「お前が、私を慕ってくれているのは、よく分かっている」
跳ね上がった彼の口角は、少し切なそうに歪んでいて、結局これから自分がされることと併せて考えてもお互いに踏み切れるはずなどないのだとみずほは再確認したのだった。
みずほさんとUFJくんの関係。
20100221
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