東京ロンリーミッドナイト 1

 ガラス窓の向こうにも同じようなオフィスビルがいくつも建ち並んでいるのが見えた。みずほは誰もいないオフィスビルの高層階の休憩スペースで、自動販売機で缶コーヒーを買って飲んでいた。近頃の缶コーヒーはクオリティが高い。会議のケータリングで出てきたコーヒーよりいっそこのほうがよほど美味しい。
 休憩スペースと言うよりもそこは廊下の突き当たりにもうけられた空きスペースだった。行員たちは一足先に会議内容をまとめに本行に戻った。みずほもそうしてもよかったのだが、そうしなかった理由は簡単、職員が四人いたので車に乗りきれない者が一人発生する。そして今日の予定に一番空白が多いのがみずほ本人だった。それだけのことだ。
 みずほはそれが合理的だと感じると彼らを先に送り出した。企業を象徴するその人をおいていくのは彼らにとって気がかりだろうということは理解できるのだが、申し訳ないことにこのほうが効率的だとみずほは思っている。みずほを動かす行動規範の第一は合理性だった。自分の銀行が、より多くの顧客に対して、よりいいサービスを提供するために、自分が少し後から何らかの交通手段を用いて帰る方が合理的ならば、そうするに決まっている。たったそれだけのことだ。
 自動販売機の隣に置かれていた、自動販売機と同じ銘柄のでかでかと描かれたベンチに座って、ぼんやりとみずほは目を閉じていた。けして眠っていたわけではない。強いて言うならば日本経済の今後をぼんやりと考えながら、そして、その日本経済を動かしている大きな銀行のひとりのことを思い出していた。それは甘い回想と言うよりも、単なる随想だった。
 会議で、自分が業務を拡大しすぎて、うまく身動きがとれない状況になっていることをふと、指摘されたのだ。それはいつものことで、どこぞの比較的ましな週刊誌の見出しに、巨大化しすぎた草食恐竜、といった具合の見出しを見かけたときには、自分の身であることを差し置いて、うまい名前を付けたものだと感心したものだ。
 自分が草食獣ならば彼は間違いなく肉食獣だ。新しい顧客の囲いこみ、新しいサービスの展開、成功しても失敗しても、彼はどんどん新たなものに挑み、自分の業務の拡大に向かっている。その姿を好ましいものだとみずほは思う。何せ自分はそういったことをする必要もないし、これ以上大きな業務体系になってなにも動けなくなるのはほんとうは嫌だと感じていた。
 みずほが不意に彼を思いだしたのはそれなりの理由があった。引き合いに出されたのが彼だったのだ。会議の最中に、彼個人のことを思い出すわけには行かない。前で話す相手の出してきたグラフに必死に集中していたから、あとになってこうやってじわじわと彼個人のことを思い出しているのだ。
 みずほにはきわめて希薄な感情という要素がある。あまり誰かのことをああだこうだと考えることはない。けれどもUFJは、それこそ彼が余りに自分にじゃれついていくるものだから、みずほだって自然と目をそらすことができないようになっているのだ。
 もしこれが、普通の人間の身の上だったら、たぶんもっと彼を気軽に受け入れてやれると思う。後は結局のところ自分の責任感やら倫理観やらが自分の行き先をじゃまするだけだ。
 その堂々巡りを、いつもどこかでしている。
 今日も、なぜかしてしまう。
 不意にベンチの後ろから抱きつくように羽交い締めにされて、そして口元に湿った布地を当てられる。視線はまず下に落ちて押し当てられたのが白地のハンカチであることを理解し、それから特有のすこしだけつんとくるにおいで、みずほはそれがおそらくクロロホルムであることも理解した。このご時世にみずほをさらうためには古典的な手ではあるが、しかし別に免疫があるわけでもない。確かに、いま自分が一人でいることを理解しているのならば、悪い手ではないだろう。まるで他人事のようにみずほはその襲撃者の手を褒めた。
 なぜ襲撃者を相手にそれほど落ち着き払っていられたのかというと、殺されさえしなければ、たぶん自分は生きていける、とわかっていたからだ。もともと比較的観念的な存在で、内臓の構造などはふつうの人間と同じだから、医者にかかれば不調も治る。だが、身の回りの金融機関仲間が死んだという話は今まで一度も聞いたことがない。吸収合併あるいは分裂の多い業界ではあるが、もし自分が看板を失っても、その誰かは隠居をしたり、吸い上げられた先で仕事をしたり、そうやっていたので、たぶん自分たちに死ぬという概念はないのだ。
 しかも自分を襲っている相手にその気が全くないのも伺えた。たしかに自分は気を抜いて背中ががら空きだったのだから、刺そうと思えば包丁で刺すこともできたし、殴ろうと思えばコンクリート片で殴られてもきっと気がつかなかった。だが相手が選んだ手段はクロロホルムだ。それならば殺されない。殺されなければなんとかなる。
 まったく根拠のない自信ではあったが、したがってみずほは落ち着いていた。それはたぶん、自分自身の身を案じる習性のない自分だからこそ、こんなに落ち着いていられたのだと思う。
 むしろそのときみずほは興味がわいた。少なくとも少し前まではほかの行員と一緒にそしらぬ顔をして業務会議に出席していたあとで、ふと、ひとりになった瞬間にみずほ銀行を象徴するまさにその人型をした生き物に、クロロホルムを押し当てるなんて言う大胆不敵な行動に及んだ相手がどんな見た目をしているのか、そのことに興味が沸いた。
 だからみずほは、自分としては落ち着き払って、そっと後ろを振り向こうとした。けれどもその前に、まるで病院の清潔なにおいを連想させるようなクロロホルムに混じって、ふと、この会議用のスペースばかりが並ぶ時間貸しのオフィスビルには、似つかわしいとは言いがたい濃いバニラを中心として少しばかりの花を混ぜたようなにおいを知覚したのだ。
 それはみずほにとって、ある男を象徴するにおいそのものだった。彼は自分が使用する香水として、その香水が好きだったが、その理由は、「この香水の時が、みずほさんが一番乱れてくれるんです」だから聞いてあきれる。いったい自分などが乱れるところを見てなにが楽しいのだろうか、残念ながらみずほには彼の考えていることのすべてを理解してやることはできそうになかった。けれども、彼がこうして時々思い詰めて、それこそみずほにとってはいい加減にするように頼みたいようなやり方で、みずほのことを強引に求めることがあることを知っている。
「UFJか」
 この場で、クロロホルムを口元に押し当てられたままで、口を動かして何かを言おうとすることが賢明ではなかったということは、実践してみてからみずほは思い出した。話すと言うことはひいては息を口から吸い込むことであり、それだけみずほの意識の存続を短くすることでもあった。危ない橋を渡ってしまったが、結局動揺したようにその手の力がゆるんだ。
 どうせ、彼だとわかれば、抵抗しない。
 UFJは、みずほ個人にはともかく、みずほ銀行そのものを相手にこんな愚行に及んで、無事でいられるはずがないことをわかっているし、そんなやり方はしない相手だ。そんな馬鹿ならばみずほだって体も心も許しはしない。否、自分では許しているし、自分の中にいつでも踏み込んできてくれてかまわないように門戸を開けているつもりだが、少なくともUFJにはそう映ってはいないようだった。だからこそ、こんな強引な手段に出るのだろうが。
 UFJは意気が殺がれたとばかりに手の力を緩めようとしたが、みずほはむしろ好んでそのクロロホルムの香りを鼻と口の双方から、吸い込もうとした。いっそ意識を失って、彼の好きにしたらいい。どうせ今日のみずほはあとの予定は残っていなかったし、UFJだって自分を連れ去ってそれほど長く状況を変えずに手元に置いていく意志などないだろう。
(否、)
 みずほの意識は少しずつやわらかくなっていくような気がした。もしかするとUFJはみずほがこの部屋に来ることを見越してはじめから何か仕込んであったのかもしれないが知ったことではない。ただぼんやりと今日明日の予定を考えたが、いっそ都合がいいほどに何の予定もなかった。さて、本格的に彼をふりほどけない。
 ふりほどきたくない。
「みずほ、さん」
 そんなつらそうな声を出すくらいならば、はじめからこんなことを決行しなければいいのに。
 言ってやりたかったが、口元がふさがれたままでは言えるはずもないし、そろそろ力も抜けてきた。さて、次に目が覚めるときにはどこにいるだろう。
 みずほは自然口角があがった。だが、ハンカチに覆われたままの口元は、たぶんUFJでは見えていないだろう、とも思った。
ストックホルム症候群みたいな恋が書きたいの。連載です。6話くらいで完結するかなぁ。
20100506



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