淡々と読み上げられていたニュースが天気予報になり、時事問題を報じ、緩やかで嘘かほんとうか分からない知的バラエティを流して、さらに首都圏のニュースを流すのを見ながら、みずほはぼんやりと用意された食事を平らげて、彼が入れてくれるコーヒーを飲んだ。UFJは時々何か話したり、テレビを見入って沈黙したり、何かを取り分けたり、洗い物をしたり、とにかくそこに自然に存在していた。
こんな時間に緩やかに過ごすことは、近頃でなくてもとても珍しかった。毎日が分刻み、秒刻みで日本の経済とつきあっているぶん、緩やかに食事をすることも、UFJとこうやって何か先の予定を考えることもなく顔をつきあわせていることも、珍しかった。そして何よりも珍しいのは、こうしていることを、それなりに悪くないと思っている自分自身だった。
九時のニュースが始まる。トップニュースは、この部屋で目覚めたときにぼんやりと聞いていた七時のそれと、ほとんど同じだった。緊急で差し替えなくてはならないような出来事は何もなかった、ということだろう。
手元のマグカップのコーヒーもなくなり、UFJがリモコンでテレビの電源を落とした。そして彼がこちらを見た。テレビから視線をはずしてはじめて、これだけ一緒にいても、UFJがみずほを見るのが久々だと言うことに気づいた。みずほがUFJを視界に入れないのはいつものことだったが、その逆は珍しかった。
「みずほさん」
声はいつものように軽薄だったが、表情は真剣だった。みずほはUFJの心境は分かるような気がした。みずほを連れてきたことについての後悔、押さえきれないような欲情、この国を代表する銀行としての責任、そういったものをないまぜにした色の溢れる感情たち。返してやれるものはなんだろうとは考えるけれども、何も分からなかった。
「何を、考えておいでですか」
つまりまさしくそれだった。みずほはここに連れてこられてからと言うもの、UFJのことはきりもなく考えるけれども、自分のことを何も考えられなかった。放棄していた。
もともとみずほは自分の存在や個性、思考というものに極めて無関心だった。だからどれだけUFJがみずほのことを求めてくれても、何を返せばいいか分からない。この、彼の匂いがする部屋は、輪をかけて駄目だった。UFJの暮らし向きが現れている。彼のことを汲み取ってしまう。自分がどうでもよくなって、ただ彼のことだけを考えている。彼の幸せについて真剣に考えている。それなのに、自分がどうしていいか、わからない。
「お前のことだ」
嘘はついていない。
これ以上ない答えだった。
UFJはどこか寂しそうに、けれども嬉しそうにも見えるような笑顔を見せた。みずほにしてみればありのままを答えてやっただけなのに、こうして自分の一挙一動に、一言二言に左右される彼が、見ているだけで切なく辛く感じられた。
ソファから立ち上がった彼はみずほの手元の空いたマグカップを洗い場に持っていった。テレビが消されてしまった今見るものがないみずほは、ただその後ろ姿を見た。彼が、自分が、銀行を象徴する人型でなければ、ただの人間だったら、こうしているあいだも恋をしたのだろうか。
マグカップを濯いだ彼が戻ってくるのにあわせてソファから立ち上がる。こんな暴挙に出られてもなお、みずほはUFJに笑っていて欲しいと思った。どうしていいかわからないからこそ、彼に分かりやすい幸せを提供したいと思った。
「あなたを誘拐したんです、オレは」
「だがお前は私を壊せない」
「どうしてですか」
「……どうしてだろうな」
彼が自責の念を抱いていることは理解できた。だからみずほは努めてそれがどうでもいいことだと諭したいと願った。どうしてやればいいかわからないから、即物的にできることをしようと思った。抱きしめてやるには少し大きすぎる体は腹が立つので、頬を両手で包み引き寄せて、そっとくちづけた。
「オレは、」
「言い訳がしたければすればいいが、私は興味がない」
言って、もう少し自分にも言いぐさがあるだろうとは思った。けれどもどうしてやればいいかわからないのはどうせわからないわけだし、みずほはただ、UFJにはどうにか幸せになって欲しいと思っていた。
UFJは狂おしいような表情を浮かべた。そしてみずほの手を掴み、緩やかな力で広いベッドに放り投げた。メゾネットの高い天井を見た。痛みはなかった。痛みはすべて、きっと、これまでもこれからも、UFJが引き受けてくれているのだろうと思った。
行為が終わる頃には話していたような感情はすべて抜け落ちてしまっていて、ただ次の呼吸を継ぐのに必死になっていた。思考は麻痺して、熱に踊らされている世界で、見えるのは自分に跨っているUFJだけだった。とても気持ちよくて、彼は一度も自分に痛い思いをさせようとしたことなんてなかった。
はあ、と息を吐きながら、欲望を放出した彼はみずほの体から出ていった。いままでには経験したことがないほどに、虚無感が凄まじかった。彼が塞いでいてくれていた、現実という宇宙が、急に体の中に入り込んできたような気がした。
体がまるで言うことを聞かなかった。痛み、軋み、重かった。伸ばしたいところは伸ばせない、曲げたいところは曲げられない。だからみずほはただ彼を呼んだ。
「UFJ」
「はい、みずほさん」
「もう少し、暖めろ」
UFJは少しきょとんとした顔をしてから、ようやく破顔して、抱きしめてくれた。その腕はとても強く力が込められていて、彼のすべてを受け止めるのに自分はふさわしいのか、みずほはまた、答えを見いだせない。
「お前は、どうして私を好いている?」
「説明が必要ですか?」
「……きっと理解できないから、不要だ」
答えて、目を瞑る。眠気以外の要求を聞き届けられる気がしなかった。どうせ性行為の後始末はUFJがしてくれるだろうと分かっていた。彼がこうして自分を好いてくれていることを知りすぎるほど知っている。自分は残酷だと思った。
「みずほさん、お休みですか」
抱きしめられているのに、UFJの声がひどく遠くに聞こえた。寂しそうな色を含んでいるのは気のせいだと思いたかった。恋は、残酷に人の色を変えてしまう。UFJを不幸せにしたくない、けれども、このままでは、きっと何もしてやることはできない。なぜなら、みずほはUFJを愛していても、UFJだけを見ることなど、できないと、そう考えてしまっているからだ。
「おやすみなさい、良い夢を」
或いは、この温もりさえ夢であればいいのに。
みずほは一度UFJの腕にすり寄ってから眠りに落ちた。だから、UFJがその腕に収まる体を、どんな顔で見ていたのか知らないままだった。
ということで濡れ場はご想像にお任せします。
20100524
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