東京ロンリーミッドナイト 4

 ブラインド越しの日射しに目蓋越し、強く苛まれて目が覚めた。あるいは遠くでUFJの声が聞こえたからかも知れなかった。
 メゾネットタイプの部屋の吹き抜け越しに、下のフロアで何か話しているUFJの声は落ち着いていた。相手の声は聞こえなかったのでおそらく電話だろう。
 ぼんやりと瞬きをする。コンタクトレンズを外さずに眠ってしまったので目がひどく痛んだ。UFJがきちんとかけておいてくれたスーツの胸ポケットに、いつもどおり折りたたんだ眼鏡とコンタクトレンズのケースが入っていることは分かっていたので、立ち上がってベッドを降りる。
 通話を切断して階段を上がってくる音は聞こえていたが、なにもどうにかしてやるようなことではないだろう。みずほはことさらその音に態度を変化させることもなく、自分のスーツの胸ポケットをまさぐる。
 UFJが寝室の扉を開けて。
「みずほさん」
 ひどく尖った声を出した。
 レンズケースと眼鏡を握ったまま自分は彼を振り向いたが、彼にそのみずほの行動はどう映ったのか分からない。ただ、昨晩ベッドに放り投げられたときよりもずっと強い力が手首にかかって、投げ出された体はスプリングと不協和音を立てた。たぶん、昨日の行為の名残がまだ腰に残っているのだ。
「なに、を」
「どこかへ、行くんですか」
「どこにも行かない」
「嘘だ、それならなんで、スーツ」
 のしかかりながら険しい言葉を並べ立てるUFJの顔色は悪かった。熟睡していた自分とは裏腹に、彼は眠れていなかったのだろうと推察できるほどのひどい隈だった。
 馬鹿だ。こんなに、逃げないと言っているのに。
「私はここにいる」
 レンズケースと眼鏡をベッドに放り出して、みずほはUFJの背中に腕を回してやった。むしろスウェットを早々に着替えてしまって既にスーツを着ているのはお前の方だと、非難したくなったのは、もしかしたらUFJに感覚を侵食されているのかも知れなかった。
「でも」
「コンタクトを外したいだけだ」
 みずほがコンタクトをつけるようになったのは、紛れもなくこの男のせいだった。外見もサービス業の一環と言ってはばからない彼は、以前の体勢からみずほがいまの名前に変わるとき、もっと親しみやすいイメージを持つためにまず眼鏡を止めることを勧めてきた。
 みずほにとっては自分の外見などどうでも良いことだったが、UFJに連れて行かれてコンタクトをはじめて装着してみたときの彼の嬉しそうな顔が忘れられないのだ。
 ひさびさにフレーム無しで見えた世界の中で、視力検査表の次に見つけたのが付き添ってくれていた彼だった。裸眼では一メートルも離れた彼のことを見つけることすら出来ない、表情などもちろん見ることも出来なくなっていた。だから、眼球の前で遮るものを何も無しに彼を見つけたことがうれしかったことは覚えている。UFJは確かにそのときみずほが笑ったと言うけれども、それがほんとうかどうかはみずほには確かめようがなかった。
 すべて、彼が自分を変えてきた。
 何をしてやることも出来ないけれども、ただ目の前で不安な表情を見せられるのはひどく辛かった。自分が逃げると言うことをこんなにも恐れている、他の何もかもを手に入れようとする野心家の彼が壊せない自分という存在を失えないでいること、みずほにはUFJに何も返してやることは出来ないけれども、ただ不幸にはしたくないと言うこと。
 なんと我が侭で、無様。
「ずっとここにいるのに、このままでは辛いだろう」
「そうか……そうですね」
 UFJは漸く笑ってくれた。屈託のない笑顔を見せているつもりだろうか、彼がほんとうはもっと明るい笑い方をするのを何度も見ているみずほだから、本来の彼の笑顔ではないということはわかっていた。
 だけれども、だったら、何をしてやれる。
「ごめんなさい、すこしナーバスになっていました」
 UFJはそう言って覆い被さっていた体を起こしたが、スーツの胸ポケットから彼の携帯電話が滑り落ちた。ああ、そういえば何か電話をしていたっけ、とは思ったが、それを詮索するのはみずほの仕事でも性質でもない。
「ほら、仕事に行くんだろう」
「朝食、下に用意してありますから」
 滑り落ちた携帯を手渡しながらUFJを急かすと、受け取るその一瞬彼の顔がこわばるのが分かった。着信でも無視しているのだろうか。この状態が後ろめたくないわけがないのだから、彼の携帯電話にどんな悪い情報が入っていても驚かないが。
「当面は、きちんと家にいてやるから」
 UFJは今度こそ体を起こして、つられて上半身を起こしたみずほの唇にキスを落とした。近頃は吸わなくなったはずの煙草の匂いを感じ取ってしまう自分が、まるで遊び女のようだった。
「はい、行ってきますね」
 ベッドを降りた彼が部屋の階段を下りていくのをぼんやりと聞いていた。こうやって自分を捉えて置いたくせに、自分を置き去りにしていくことには何の罪悪感も感じないのだろうか、と思った。

 適当にコンタクトレンズを外して眼鏡を掛ける。外したコンタクトレンズを入れたレンズケースを胸ポケットに戻そうと思って、そうだ、とみずほは自分のスーツの内ポケットをまさぐった。
 やはりみずほの携帯電話は取り上げられていた。
 それは後ろめたくもなるだろうが、ではUFJはみずほを一人にしたとき、携帯電話を残していったら、着信を取ったり、メールを返したり、あるいは誰かに助けを求める連絡をするとでも思ったのだろうか。
「私がどうしてやることもできない分、信じて……くれないか」
 つくづく自分の考えていることは虫が良いと、思った。
 朝食を取って、朝の情報番組を見て、世間にだけはついて行っておこう、と思った。部屋の鍵を開けて出て行くことなど容易いのにそれをしない自分のことを、UFJはもうすこしだけ理解してくれたらいいのにと思った。
コンタクト点けたまま寝たときの朝の絶望感半端ないですよね。
20100729



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