座り心地のいいソファに身を埋めて、自分がまどろんでいた事に気付いたのは、がちゃり、と扉の音がしたからだった。ああ、昨日からひどく眠たい。あんなものがどうだということはないと思っていたのだが、存外クロロホルムが体の中に尾を引いているのかもしれない。それとも彼の言っていた通り、休憩をするつもりになりきって体に力が入らないのか。
スリッパの音をぺたぺたと立てて、UFJが部屋に入ってくる。みずほさん、おやすみでしたか、という声が柔らかく頭上から降ってくるから、んん、と呻いたけれど、空を掻いた手はうまく彼を掴むことができずにぺたんとソファに落ちた。
ああ、寝てていいですよ。
目を閉じたままでも分かる彼の表情、少し笑いながらつけたままだったテレビの音量を絞る手つき。がさ、と置いたのは買って来た昼食の袋だろうか。そもそもいまは何時くらいなのだろうか。
「や、起きる」
眼鏡はどうやら落とさずにかけたままだったらしい自分の器用さは一種の才能かもしれない。みずほは顔を上げる。ブラインド越しの部屋の光を探った。太陽は南中の一番高い瞬間を通り過ぎて、すこし傾いているような気がした。
「起きるって言ったらすっきり起きますね」
「目覚めで寝ぼけている時間などもったいないだろう」
「貴重なみずほさんが見られました」
ふふ、と笑うUFJの顔は淡々とした表情を笑みとしてかたどっていた。ソファに沈み込んでみずほがUFJの顔を思い浮かべている間に、この男はどうやらみずほの顔を見ていたようだった。確かにUFJの前では、眠るなら眠り、そうでなければ目覚めている姿しか見せたしかないような気がした。
「手を差し伸べてくれるなんて」
「私が?」
「もう忘れたんですか」
UFJがいたく上機嫌で言う。覚えているに決まっているだろう、とは言わなかった。その手が空を切ったと言うことが、まるで自分の心境をそのまま示しているような気がするのだ。ほんとうに彼のことをつかんでいることなんてできないのは、寧ろ自分のほうだ。そんなことは良くわかっている。
何も言わせてはいけない。
「腹が減ったな」
「昼飯、買って来ました」
「作ってくれないのか?」
「それどころでは、ないので」
ああ、もうこの逃亡劇もけして安全なところにいるわけではないのだろう。
UFJがすこし表情を翳らせたので、そのままで放っておくのはふたりのしかいない部屋の空気が余計に重くなると思った。みずほはあまり空気が重いのは好かない。
「何を買ってきたんだ」
「運動不精のみずほさんに、お野菜を中心に」
「気遣いをさせるな」
そもそもお前が捕まえたりしなければ、私の食生活の心配などされなくてもいいのだが、とは、言おうかどうするか迷ったけれども言わなかった。彼がやりたくて看ている面倒だ。こちらから頼んだわけではない。
「みずほさんが美味しくご飯を召し上がって下されば、オレはそれでいいです」
「献身的なことだ」
「珍しい、みずほさんが自覚的だ」
驚いたようにUFJが目を見開いた。ソファの背中越しに、手を突いて話す彼の距離がすこしもどかしかった。それで、みずほはくるりと振り向くと、UFJがまだきっかりと締めたままだったネクタイをぎゅっと引いた。
バランスを崩したようにUFJが自分の体に覆いかぶさる。UFJの、その不安定さのなかでも、ぜったいにみずほを傷つけないように受身を取るところが余り好きではなかった。自分はそれほど守られるに相応しい存在ではない。それに、囚われるのにも相応しくない。
「何考えてます」
「……いや」
ああまただ、思考がUFJのところまで行き着くたび、痺れたように神経の端がちりちりと疑問符を浮かべては、それが形にならずに溶けてしまう。これは吸わされた毒のせいではないのだ、ほんとうに、いつものことなのだ。
彼のことを定義したい。こんなことまでして自分を捕まえてくれる彼に何かの意味を与えられたらと思う。けれどもどうしてかそれがうまくいかない。答えを探したところで、それが彼になんのためにもならないことを考えるとひどくつらい。
「腹が減ったなと」
結局自分が従うべきは本能だろうとみずほは思った。それ以外のものをもったところで、自分の銀行の経営にかかわらないところの物事にみずほは積極的に感情を動かすことも出来ない。
「そうですね、ご飯食べましょう」
UFJが、話を明確に逸らされて、不機嫌そうな顔をしているのは分かった。けれども、それ以上のことをみずほが口にしないのもわかったのだろう。異常に近い距離から、額にひとつ口付けだけをして、UFJは体を離した。