マニキュアと武蔵野と京葉
彼がマニキュアを塗ることにさしたる疑問はない。至ってあり得ることだろう。その常人を離れた感覚には理解できないところも多々あるけれど,京葉自身が理解されることを望んでいるわけではないという事もよくわかっているので武蔵野はいちいち口にしない。
至ってシンプルなのだ,彼は。綺麗なものが好き,なのだと思う。それから無理が嫌い。たぶんそれだけだ。理解も共感も出来るところもあれば出来ないところもある。しかし武蔵野はなんだかんだと好きこのんで彼といる。
「なー」
「ん?」
「なんでそんな半端な色なの?」
京葉が塗っているのは薄くパールの光るパープルがかったピンクだった。もっと原色か,あるいはもっと肌になじむ色を好みそうな京葉にしては少し意外な色だった。京葉は少しばかり手を止めて,表情だけ見たら愛らしい笑顔を浮かべて武蔵野に視線を上げると,うれしそうに,聞きたい? と尋ねてくる。なんだかそう聞かれると不愉快なので別に,と返しておく。
京葉は笑みを崩さなかった。
「別に何色でも良いんだ」
色のことを聞いたから色についての回答が返ってくる。別に,と自分が断ったことが無視されるなんて織り込み済みだ。京葉にしては珍しいくらいに長時間,言葉のキャッチボールが継続している。武蔵野は、従ってこくりと頷いて続きを促した。
「僕の手の先が光るのを,武蔵野が気にしてくれたらそれで良いの」
綺麗だね,っていわせたら完璧かな。
「それだけ?」
「それだけだよ」
「きもちわるっ」
吐き捨てても京葉はやはりにこにこと笑みを浮かべたままだった。
(気持ち悪いのはそれだけで喜んでいるオレだ!)
マニキュアとりんかいと埼京
いつも、その整った容貌に捕まって埼京は何も出来ない。何も出来ないとたいていそのまま奪われていく。京浜東北が,悪い男に引っかかる年頃なのかな,と言っていた意味は,まだ分かるようで分からない。
今日も,大崎から少し,大井町だとまだ京浜東北と東海道が通るからやだ,駄々をこねてそのまま彼の区画へ,引きずられるわけでもないのにふわふわと着いていって,高いビルの立ち並んだ海沿いの人工の街へ。手を差し伸べてくれるのは,言わばそれは慈悲の一種だと,埼京は埼京なりに理解している。
りんかいはこの駅の辺りは一人で走っているから(無論,埼京の心をかき乱すあのツインテールもこの辺りにはいるのだが),休憩室など彼の好みにしつらえてあればいい。その割に存外りんかいの駅の休憩室は飾りも何もない殺風景な部屋だった。たぶん彼の私室もさほど遠からぬ所にあるから,この駅のこの休憩室はつまり埼京のためにあつらえられた罠のようなものだろう。
埼京はりんかいの爪の先を見る。綺麗な指の先は,黒い染料がよく似合った。普段の彼の容貌をあわせて強めるようなその色合いに,埼京はただ落とされるように見入った。浮遊するように恋に落下する心境はたまらない,恐怖心に泳がされるようで,好奇心におぼれている。
「じゃあ,ピンクで良い?」
「ピンク?」
「黒だと,在来に戻ったときに怒られるんじゃない?」
りんかいの指摘はもっともで,埼京は,こくん,頷くしかなかった。そんな顔しないで,とりんかいは椅子に掛けている埼京の顎をすくい上げてゆっくりと笑みをかたどる。つられて少し努力して唇の端をあげると,りんかいはそのはり付くような綺麗な笑みを浮かべたままちょっと待ってて,と埼京の顎から指を離した。
そこらにあった赤い十字の描かれた箱から,りんかいはおだやかなピンク色をした瓶を取り出してきた。なんでそんな色持ってるの,とか,塗り慣れてるの,とか,いうことを聞けばいいのに,聞くのに相応しい単語が分からないのだ。
「大丈夫?」
りんかいに聞かれて,知らずうつむいていた埼京はまた顔を上げる。大丈夫,だと思う。答えないままだとりんかいは苦笑いしながら椅子に掛ける埼京の前に膝で立つ。それから丁寧に埼京の手を取り,そして刷毛に色を乗せて,ゆっくりと爪に垂らした。染料は薄くのばされていく。
「本当はもっとベースとかトップとかした方が持ちは良いんだけど,時間ないから,ね」
言い聞かせるように言われる。埼京は動けない。普段のけたたましさからすれば自分のしおらしさが何かおかしいことは重々承知している。
「今度時間のあるときにまたやり直してあげる」
「……りんかいが,悪いんだ」
埼京はりんかいの言い聞かせる言葉に逆らうように呟いた。そのくせ手も取られたままだし,視線はピンクを乗せてくれる手の先に載った黒に奪われたままだった。りんかいはやさしく,ん? と首をかしげて埼京の意図を尋ねてくれた。
「だって,オレ,なんでこんなにうれしいの」
「……僕が悪いんだよね?」
「うん,りんかいが悪い」
戸惑いをそのままこぼせば,片方の手を塗りおえたりんかいが,確認するように尋ねてきた。もう他の言葉も選べなくて,ただりんかいを非難すれば,彼は,やっぱり綺麗な笑みを浮かべたままで。
「じゃあ,僕が悪いままで良いよ」
その黒く飾られた手が爪を染め上げた埼京の手の甲に,キスをした。
(ほらやっぱり,りんかいが悪い)
マニキュアと東海道本線と京浜東北
冷えてきたね,と京浜東北が口にすれば,そうだな,と東海道も返してきた。そろそろ手袋付けようかな,という京浜東北の右手の薬指には指輪がはまっている。まかり間違っても東海道の贈り物ではない(ある意味京浜東北にとってはこの社から受け取る全ては東海道のものだけれども,彼にそれを告げる日は来ないだろう),JRの指輪だ。
別に何らかの理由があって付けているわけではなくて,こないだ少し磨いたから,ついでに久々に付けてみた,程度の感覚だ。高速鉄道ではない自分たちには着用義務のあるものではないが,はめてみればやはり少し落ち着くし,少し身が引き締まるし,少し拘束を感じた。
京浜東北は両手でマグを持って安いティーバッグで入れた紅茶を啜った。東海道の部屋は,紅茶は高いものから安いものまでこれでもかというくらいの品揃えなのだ。理由は知っているがあまり京浜東北としては受け入れたくない心境もそこには含まれている。京浜東北が駄々をこねてどうにかなる事柄ではないので,ことさら口にはしないけれども。
「手袋するのか?」
「うん」
手も冷えるし。それなら,と東海道が徐に立ち上がったので京浜東北はその意図を読めずに彼の動きを目で追った。東海道が取り出したのは爪を染める染料だった。自分のラインカラーのようなあざやかなネオンカラーに京浜東北は目を見張った。
「どうしたの珍しい」
「駅ナカで売ってて」
それ自体は至ってあり得ることだった。問題はその,一般的とは言い難い色味と東海道と東海道が駅ナカでそれを買うという事実の掛け合わせだ。
「お前の色だと思うと,つい」
東海道の歯切れは悪かった。聞かされるこっちの身にもなって欲しいと京浜東北は思った。つい,で自分の色を選ばれるような存在でいることがひどく面はゆいのだと絶対に彼は分かっていない。
「で,僕が塗るの?」
手袋をするというのはつまりそう言う意味だろう。東海道は黙って京浜東北の右手を取ると,指輪をしている薬指にだけ,丹念に色を乗せた。慣れない作業だから,すこしばかりはみ出したのは,乾かないうちに綿棒でこそげとってくれた。時間にすれば一分にも満たないその間,京浜東北はうつむいて手を取る東海道の睫やその真剣なまなざししか見ていなかった。
塗りおえると東海道は満足そうに息を吐いた。その口の端が上がることもなかったけれども,京浜東北には彼が上機嫌であることが分かった。なぜかと言われたら愛故にとしか答えようがないだろう。
「なぁに」
「指輪の代わり」
オレだけの色,と東海道が漸く少しだけ表情をゆるめたから,京浜東北は結局今日もほだされてしまうのだった。
(とてもじゃないけど,誰にも見せられない)