リキュールと山手と大江戸
終電が過ぎ去った後の西新宿はとても静かで、会社に泊まり込むような人種が何人か、夜行バスの発着を待つ人が何人か、ちらりほらりと見えるだけだった。大江戸は山手に飲まないかと誘われたとき、その静かな西新宿を愛しているあまり、屋外でも宜しいでしょうか、と聞いてしまったのだ。彼が了承するのは意外だったけれども、大江戸にしてみれば、自分の領域でいられることは随分気が楽だった。
彼は人形を置き去りにしてきていた。そうすれば随分と空気は静かで、ふたりはコンビニで買ってきた酒とつまみを、ベンチに掛けてのんびりと嗜んでいた。ときどき警備員が嫌な目で見てくるけれども、立ち退けとは要求されていない。それならば動かないという我が侭は、自分には珍しいものだった。
誰かに叱られる前に、誰かが不快な思いをする前に、身を引くのが常だと思っていた。
けれども、彼といる時間は誰かに邪魔されたくない。
たとえその関係に特別な名前が何もなくても。
「落ち着くか?」
コンビニの袋を挟んで隣、山手が不意に低い声を出した。彼の声が好きだ。彼の低い声に話し掛けられると、なんだかとてもいけないことをしている気になる。自身の身が作られてからまださほどの歳が経っていないぶん、大江戸は他人に直接示される好意にきわめて弱かった。それがどういうものかの区別が付かないのだ。
「はい」
山手がどうして自分を誘うのかよく分からなかった。同じように輪を描く役割以外、自分たちに与えられたものが共通しているとは思えない。けれども大江戸はその機会を逃したくないと思った。ビールもどきは軽く喉に落ちてくる。落ち着くか、という問いが何を得ようとして呈されたのか分からない、彼が自分に対してどういう感情を持って誘ってくれたのかも分からない、そして大江戸はその理解を放棄していた。
「忙しくなかったか」
「いえ」
「そうか」
二人しかいないと大体会話は続かない。本望と言えば本望だった。元々話すのは苦手で、それが山手となるとひときわだった。敬意と、そしてそれ以上に好意を持っている彼に、何かを言おうとすれば、だいたい口が勝手に竦んでしまう。
外気は冷えた。山手は上質なカシミアのコートを羽織っていた。自分で用意したのか、誰かに用意して貰ったのか、その誰かはどれくらい山手と近しいのか、興味を持っても答えなんて知れないのに、どうして自分はこうも浅はかなのだろうと、大江戸はぼんやり考える。
「冷えないか」
「いえ、これがありますから」
片手にビールもどきを、もう片手に握りしめたホッカイロを示すと、山手の手が不意に自分のほうに伸びてきて、握っていたホッカイロを奪った。驚いた余りに大江戸が固まっているのに気づかずに、うん、あったかいからこれなら大丈夫だな、と言って、また大江戸の手にホッカイロを戻す。
「どうかしたか?」
「……いえ、接触に不慣れなだけです」
きわめて堅苦しい表現で返事をすると、なんだそれは、と彼が珍しく小さく笑った。無自覚ならば大概にしろ! と言ってみたかったが、大江戸にそんな度胸も、無造作さもなくて、結局ただ黙っているだけだった。
リキュールと東海道と京浜東北
東海道は正直なところ些か気が滅入っていた。うっすらとした笑いを浮かべて隣にもたれてくる京浜東北がかわいすぎるのがいけないなんて、他の誰が聞いてもただの盛大な惚気に過ぎないことを考えながら大まじめに悩んでいた。
会議にいつも使っているホテルが宿泊券をくれた。せっかくホテルを取ったのだから楽しもうと、チェックインが遅かった割に、二人はすんなりとホテルの上層階のバーに入った。その辺りまではそういうことがあればしばしば付随してあることで、いつもと違うのは、いつもより少しお疲れらしい京浜東北が、酔いが回るのが早くて、甘えてくる、ということだろうか。
「東海道?」
夜景を見下ろすソファは平日の遅い時間だから座れたのだろうと思う。二人の視界は夜景とその手前の大きなガラス窓と手元の酒しかない。早々に部屋まで連れて行かないと、ここで甘えられるといろいろとざわついて仕方がない。
柔らかなベッドで京浜東北とじゃれあうのはさぞ楽しいだろう。部屋に荷物を放り込んでからバーに上がったため、おおかたの想像は付いている。この、他に何もないようなソファに埋もれてむつみ合うのも悪くないが、やはり部屋で何にも邪魔されずにむつみ合いたい、そう思ってしまう。
けれどもそのためには一度この景色から京浜東北を連れ出さなくてはならず、そうしたらご機嫌でもたれてくる体温を一度引き剥がさなくてはならない。それは惜しいような気がした。一時離れたらそのあとに絡まり合う時間があることを把握していても、それでも堪らなくいま、見上げてくる目が美味しそうな空色なのだ。
「部屋、戻らなくて良いか?」
肩にすり寄ってくる髪が、かさかさ、とかわいらしい音を立ててこすれる。ふわり、と見上げてくる目が純粋に疑問の色を浮かべているのは、わざとか、本当か。
「触りたい」
正直に、言うと、とたんに空色の目の奥が一度ひきしぼられるようにきゅっと絞まり、そしてゆるんだ。その流出はきわめて無邪気な表情なのに、性的な出来事の前触れで卑猥だった。
「がまんできない?」
ああ、完璧に優位に転がったつもりになって。
腹は立ったが事実だった。少し優越感を味わせてやったら、そんなのが嘘のようなてひどい快楽を与えてやろうと東海道は心に決めた。ああ、と頷くと、悪戯な空色が一度まばたきをした。こんな顔を知っているのが自分だけだと思うと、少しだけ、興奮せざるを得なかった。