雨と武蔵野と京葉
 ひろいひろい海と、それから排気ガスを巻き上げて走る高速道路。それが京葉の視界の殆どだった。海からたたきつけるような風が時々ひどくて、そのたびにふらついては、こんな風の中に仕事が出来る方がおかしいじゃないと笑う。それだけだ。
 そこに雨が加わればそれはそれは憂鬱で、駅舎から海際を眺めて京葉は頬杖をついていた。海際といっても高さのない建物からは京葉工業地域が見られるだけで、立ち上る煙が雨に拾われて地面に返される雨は、余計に動くのを億劫にさせた。
「あー、だりい」
 そしてそれは武蔵野にも言えることである。
 ソファにひっくり返っている彼を見るだけで余計に動く気力が削がれることを分かっているので、京葉はぽつぽつとガラス窓に当たる雨の音を数えていた。運行は正常だが、東京に戻れば面倒な会議が待っているので、こうしてふたりで千葉の方の駅でこっそり、逃げてきただけなのだ。
 間隙なく電車は停車したり通過していったりして、静かな場所ではなかった。けれども、ふたりの所在はたぶん誰にも掴めていないので(なにせ改札の内側にこうやって逃げ込める部屋がある駅を選んで逃げているから)、静かにさえしていれば、ずっと、ふたり。
 京葉は雨を数えるのに飽きて振り返った。ソファで自堕落に寝転がっていると思っていた武蔵野はどうやらずうっと自分のことを見ていたらしいと言うことに、目があって気付いた。
「どうしたの、武蔵野」
「あー、なんかさ」
 あろうことか彼は体を起こして、窓際に立っている京葉の真後ろに立った。彼が自分から率先して体を動かすなんて、この雨はこれから雷に変わって風も吹いてまた例の如く例のように自分たちは身動きが取れなくなってしまうのではないだろうか。
 京葉よりもすこしばかり背の低い武蔵野が、うしろから抱きついてくると、ちょうど京葉の項辺りが武蔵野の唇に当たるようで、彼はそこに吐息を吹きかけた。思わず、ひゃ、という声が出てからだが竦んだ。
「な、なんなの!?」
「雨見てるお前見てたら、興奮して来ちゃったから、やろ?」
「えええ何言ってるの!?」
 自分を見ていてどこにいま盛る要素があったのかなんてさっぱりだし、こんな理由でなしくずしで行為に及ばれるなんてまっぴらごめんだと一瞬思ったはずだった。けれどもそれはほんとうに一瞬の出来事で、文句を継ぎ足そうと開いた唇に濡れた舌が入ってきたら、すべて台無しになってしまった。
 武蔵野の琴線は理解できない。
 理解できないけれども、ふたりきり、誰も来ない。
 雨に閉ざされた部屋は確かに急に室温を上げる気がしたので、しかたなく京葉は武蔵野が口に突っ込んできた舌に自分の舌を絡め返した。

(だって窓際の肩がすこし寒そうに見えたから)

雨と昭和な東海道本線と京浜東北線(ほんのり「あなたの手にした空」の続き)
 新橋駅のホームの先でぼんやりと雨に打たれる京浜東北を見つけたのは偶然だった。彼はもう白い着物を着ているのではなく、黒い国鉄の制服に身を包んでいた。
 制服というのはやたら窮屈で、線を包み込んで隠すことが出来る。彼を京浜と呼んでいたほんの十数年のあいだには垣間見ることの出来たあの体の線を、まったく想像できなくなっている自分に東海道は嫌気が差した。
 距離は随分と広く、新橋駅は落ち着きに欠いた。間断なく訪れる京浜東北線の列車は彼の髪を巻き上げては吹き下ろし、そのたびに彼の髪からは雫が飛んでいるのだと思うが、東海道はその背中に近づくことすら出来ない。
 抱いたのは一度、たった一度だけ。
 陳腐な感傷をもたらすには充分すぎるその一度のことをまだ覚えている。苦しそうに吐き出した呻くような吐息、それと裏腹にずっと漏らした譫言のような言葉。けして快楽を得られているわけではないのに、ずっと東海道を求めてやまなかったあの日の京浜。
 京浜東北はずっとぼんやりと新橋から南側を見ていた。彼がどうしてそんな眺めを好いているのかなんとなくわかるような気がする自分がいやだった。東海道の眺めを海のものだと言ってずっと好いていた京浜東北。自分のひな鳥ではすでにないその生き物。
 東海道は何も言わずに振り返った。途中、駅員に、あれが風邪を引かない程度で引き上げるように、と指示を出した。直接彼に手拭いを持っていくことのできない自分は、つくづく卑怯者だと思った。

(得られなかった景色が、とても遠い向こうにあるのでしょうか?)