日常的な防衛線の突破

 少し長いプラスチックタッパーに,手で大まかに握って量ったスパゲッティを投入。上から軽く塩を振って,水を注ぎ込む。蓋はしないで,電子レンジに放り込む。気をつけるのは水をこぼさないようにすること。スパゲッティのゆで時間が8分,電子レンジだからゆで時間を少し増やして11分,仕上げはフライパンの中でソースとともに。
 電子レンジをセットする電子音で誰かが起きなければいいと,怖がる自分を自覚してはいる。けれども,もし誰かが気づいて文句でも言いに来たらいつも通り飄々と躱せばいい。だって,そのリスクを超えるほどの楽しみがこれから帰ってくる。
 低周波の電子レンジの音がキッチンに響く。冷蔵庫に,誰か(おおかた山形だろう)が切らさないようにストックしてあるタマネギとベーコンだけ勝手に取り出す。もし食材が無くなっていることを誰かが嘆いたとしても,誰も上越が消費した分を上越がきちんと買いに行くなんて期待していないから良いのだ。
 本当はもう少し凝ったものを作っても良いのだけれども,つまるところ制限時間は11分しかない。タマネギはあっさりめに櫛形にスライス。ブロックベーコンは大まかに一口大と言えるサイズにカット。
 前に誰かが上越は料理が出来なさそうに見えるとか言っていたが,大きなお世話で,本質的に料理は得意科目だ。ただマメな調理や美しい盛りつけなどと言われると猛烈にモチベーションが下がる。その辺は性格の問題だ。
 少し深いフライパンにオリーブオイルを流し込み火をつける。本当はフライパンを温めてからオイルを入れるものらしいがそんな面倒なことはしていられない。彼の今日最後の仕事が終わった時間を考えればもう時間はなくて,そう思えば11分という制限時間だって足りないくらいだ。
(どんな顔するかな)
 何も別に夕食を作ってあげるようなかわいげは本来持ち合わせていないわけで,今日はたまたま機嫌が良いからそんな気になっただけだ。どうせあの男の味覚なんて案外麻痺していて,子供っぽい冷凍食品だって美味しいとかいって喜ぶのだから,上越の作るものに文句は言わせない。
 ベーコンとタマネギをざっとフライパンに流し込み,これまた誰かのストックのトマト缶を棚から取り出す。こういうとき日頃の傍若無人な振る舞いは役に立って,上越が気まぐれを起こしてご飯を突然作った,からといって別に誰も上越を非難しないのだ。
 とどのつまり,性格が悪くて傍若無人なのは自衛のためだ。
 タマネギはまだ満足な色に変わらない。残された時間は5分と少しだと電子レンジが表示していて,そして宿舎の下の方で足音がする。ありえる可能性は,宿直の警備員か,まだ今日戻ってきていない彼のどちらかで,舌打ちの一つもかましたくはなる。
 同僚たちは東北と上越の関係に名前のあるものと思っているだろうし,おそらく客観的に見ればそうなのだろうと上越だって理解はしている。けれども,単純に認めたくはないのだ。だって,東北がもっと,取り乱すほど上越に執着して欲しいと,どこかで願っているから。
「おかえり」
「ただいま」
 先手を打って挨拶を交わし,コミュニケーションを拒絶しようと思ったけれども,そのまま上越をあっさりスルーして部屋に戻ってくれればいいものを東北は上越が気まぐれに料理をしている姿を珍しいとでも思ったのか,食卓の椅子に書類鞄を置いた。
(まるで模範的な家庭)
 思いついたことがおかしくて,小さく吹き出すと,どうした,と東北が歩み寄ってくる。
「なんでもない,僕の夜食」
「食べたんじゃないのか?」
 トマト缶のプルトップを起こしながら答えると,東北はちゃっかり背後に回り込んで抱きかかえるようにして,腹に手を回してくる。セクハラ! と叫んでやろうと思ったけれども,視界の隅に電子レンジがうつり,何のために音を殺しているのか思い出して必死で黙り込んだ。
「おとなしいな」
「食べたけど,おなか空いたんだよ。何? 君も食べたいの?」
「ぜひ」
 あっさり答えられて,トマト缶をフライパンに滑り込ませる手が震えた。客観的に見れば,二人の関係に名前はあって,たぶん東北はそれを当然と思っていて,つまりそれを受け入れていないのはたぶん上越だけなのだ。
(ずるい)
 甘やかせばいつか陥落させられるとでも思っているのだろうか。
 まとわりつく東北の体を払いのけて,トマトを軽く温めながら調味料を適当にフライパンに放り込む。いっそ唐辛子を山盛りにしてやろうかと思ったけれども食べるのは自分もなのだ。ちょうど電子レンジが10秒のカウントダウンを始める。
「お皿出して」
「ん」
 そうして東北が2枚皿を出してくることもわかっているし,手伝ったのだから,という得意げな表情を浮かべてたぶん顔を近づけてくることもわかっている。そしていつもの傍若無人さで払いのけようとすれば,東北はきっと言うのだ。
「俺を相手に何を自衛する?」
「僕は別に君を好きになったことなんか無いよ」
 ああ,全てがなんという矛盾!
傍目にはただのバカップルと書いて良い迷惑と読む
20090805


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