そこにただ恋があるように

 上野駅の高速鉄道の休憩室はあまり使用頻度が高くない。この辺りは駅間距離が短いから施設もさほど充実していないし,すぐ隣の東京駅まで行けば東海道や山陽に会うことも可能だ。
 逆に言えば逢い引きにこれほど適した場所もない。
 あまりにしっとりとした空気を期待してはいけないと分かってはいるけれども,と思いながら東北はその扉を開ける。呼び出した張本人は足を組んでソファーに掛けて,ぼんやりと携帯を弄っていた。
「上越,すまない遅くなった」
「うん」
 東北が声を掛けると,上越は顔を上げずに生返事を返してきた。この男がこうなのはいつものことだから別に殊更とがめ立てをしようとは思わないし,そんなことは初めから見越していくつか出来る仕事は鞄の中に入っている。
 北へ向かう最後の電車を東京駅で見送って,在来の世話になってすこしだけ。本来は東京駅から北へ向かう最後の電車は上越の方が東北より後だから,本来はもう上越がここにいるのはおかしな話なのだが,別に上越と東北の仕事に対するとらえ方の違いが露呈しているだけの問題だ。わざわざどうにかしてやろうとは思わない。
 書類鞄から薄いネットブックを取り出して,簡単にできる仕事を始める。もしどこかへ行きたいとか,何かしたいのならば,この男はそのうち言い出すはずだ。
 無理矢理言葉を引き出そうとしたら,かたくなになって言いたいことを言わない。そうしたら,上越の本音が聞き出せないままになってしまうではないか。
 そんな勿体ないことはしたくないから,東北は上越の口を基本的に無理に開かせようとはしない。上越もよくその東北の性質を分かっているらしく,好きなだけ黙って泳いでいる。この沈黙のたゆたう空間を東北は,実は一番しあわせに思う。
「ちょっと,この辺涼しくなったじゃない」
 不意に上越が口を開いた。ネットブックを叩く手を止めずに,東北は上越の発言を待つ。話を聞いていると思わせたら,きっとまた黙る。上越の喉奥にたゆたっている思惑を,気管や喉を通して声帯を震わせて発言に変えるまでは,随分とたくさんの堰があるのだ。
「上野公園,散歩したいなっておもって」
「……随分と広いぞ,それにこの時間はもう閉門しているのではないか?」
 彼は幾分非常識なところがあるけれども,わかりきった愚かなことはそこまで口にしない。そんなものだから,不思議に思った東北は正論で攻める。案の定上越は携帯を弄っていた手を一瞬止めた。
「じゃあ,公園脇の道とかでも良いけど」
 実はこのとき既に東北は理解した。
 毎日同じ線路を走って景色を見ているとなんとなく目に入るまぶしいネオンもある。この辺は在来線との打ち合わせにもよく使うから,だいたいどのような特徴のある街かも分かっている。
 日本最高学府と大きな公園を備えておきながら,そこから少し外れたところにある,そのエリアに。
「散歩をするには少し治安が悪いから,タクシーでも構わないが?」
 ネットブックを閉じながら東北は立ち上がる。上越は顔を上げなかったけれど,その手はもうすでに携帯を弄ってはいなかった。代わりにほとんど変わらない顔色は長い髪で隠されていたけれど,その隙間から見える耳がひどく赤い。
「夜の時間は限られていて惜しい,お前から誘ってくれるのに」
「誘ってない」
 振り上げて漸く見えた顔や目元はすっかりゆるんでいて,あけすけな言い方をすれば,したくてうずうずしているのがよくわかった。ああ,こんな状態の彼を,道にさらけ出して歩くなんて耐えられない,と東北は思った。
 ソファーに掛けたままの彼の前に立って,そっとかがんで困ったような潤んだような色を含んだその目尻に,一度くちびるを落としてから,ぺろりと舐めてやる。すこしだけその肩が跳ねた。そうしたら長い腕をのばしてきた彼がこつんと額と額をふれあわせる。
「分かってるなら早くつれてって」
 場所は下調べしたんだから。
 額をあわせたまま目線は下に落として上越は携帯の画面をつきだしてくる。ちらりと見ればいかがわしげなホテルの名前が見えて,コスプレが充実していると良いな,と言う言葉は上越のかわいげに免じてぐっと飲み込んでおいた。
大変下品な話ですいません。歩き慣れないので上野〜鶯谷・湯島は詳しくなくてなおのことすいません。
20090823


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