潜在的マーキング

 久しぶりにかちり,と火を付けた煙草の吸い方は,すっかり忘れてしまっていた。
 持ち物検査か何があったのか,あの二人の関係性は何によって成り立っているのかすっかり分からないけれども,とにかく山陽から煙草を押しつけられたのだ。「東海道に見つからないように,ちょっと預かっといて!」と手を合わされて,東北は断る理由もないので受け取った。受け取ってから少し考えて,何本か減っても構わないか? と尋ねると,買い直すよりはマシ,という理由で許可された。
 西日本の新幹線のホームは今でも喫煙場所があるそうだ。全面禁煙化と同時,やむを得ず禁煙をした東北とは違い,同じ線路を走っていながら山陽に煙を吸わせてやる逃げ道を残しているのは結局,他ならぬ東海道自身ではないのだろうかと思う。
 駱駝の絵が描かれた緑色の箱は,それなりの重さとそれなりのメンソールで,東北も一時吸っていたことがある銘柄だった。少し甘いフレーバーが重苦しいニコチンと誤魔化すメンソールに混じって,心地の良い煙草だと東北は思っていた。
 しかし東日本が禁煙化の方針を打ち出してからは,東北も自然と本数が減り,やがて買うのもおっくうになって禁煙,というよりも単に習慣がなくなってしまったのだ。仕事場で吸うことがかなわないのでは吸える場所もない。東北の部屋に居着いている誰かは煙が嫌いなのだ。
 ぼんやり天井を仰ぎながら吸った煙はやはりうまく肺の中に入ってこない。それでもそれなりに呼吸に乗って入ってきたニコチンは肺を重苦しく刺激した。理解できないね,と彼は怒るだろうか。怒っているならば朝からだ。
 彼は時として感情を制御しかねて東北に当たり散らす。東北にとっては日常茶飯事で,よっぽどのことがないと逆に当たり散らし返すような事柄もないし,上越にとって自分が良い具合にガス抜きの対象になっているならばそれでいいと本気で思っている。
 けれども上越に残された少しの常識はそれを許さないらしく,何かのきっかけで怒って,その怒りの矛先が日頃溜まっている鬱憤に移動して,爆発するように東北に当たり散らすと,何か申し訳が立たないとでも思うのだろうか,東北に対してひどくしおらしくなったり悪くすると逃げ出したりする。
 おかげで現状,東北は上越に連絡が付けられない。
 さてどうしようか,ふかした二口目もなかなか上手く煙を吸い込めなかった。考え事をしながら吸っていると煙草はあっという間に灰へと化けていく。赤い炎がちりちりと手元へ近づいてくるのを見ながら東北は彼のことをぼんやりと考える。
 今回も何がきっかけで彼の怒りに火がついたのかはよく分からない。彼が切れるきっかけというのは大体,読み切れたためしがない。そもそも彼は相当な不満を口の中にため込んでいて,けれども口の端から小出しにしているように見せかけてどうもそれをむしろ増幅しているらしい。
「他の人に垂れ流してるなんて何の意味もないよ,伝わらないもの」
 前にそんなことを言っていたっけ。
 それならば東北を相手にぶちまける理由にはなっていないと上越をじっと見てると,君は,僕の言うことをちゃんと聞いてくれるから,と上越は後付のように呟いた。それはつまり東北のことは信頼していると言うことのようで,東北はひどく喜ばしいと思ったのを覚えている。
 あの気むずかしくてひねくれていて本音など見せやしない彼が東北を選んでくれると言うことだけで,それだけで。
 手元の煙草から,じじ,と燃える音が聞こえて東北は我に返った。もう随分前に撤去された灰皿が置き忘れられている東京駅の用務員倉庫は,職員たちの隠れた喫煙所だった。といっても東日本の長たる東北がこんな所にいては誰も落ち着いて煙草を吸えないだろう,東北は短くなってしまった煙草を軽くたたいて先端の灰を落とす。三口目は天井を見ないで,煙草を地面と平行にして吸った。そうしたら煙がしっかりと肺の中に入り込んできて,満足して東北は煙草の先端を灰皿に押しつけて消した。
 それから執務へ戻ろうと新幹線のホームへと向かう。存外彼はそのホームに設えられた乗客の待合の椅子に掛けていた。
 目の前に立つと上越は普段の調子を取り戻し切れていないのか視線を在来線のホームへ投げたままだった。十番線はあまり使われない。新幹線ホームのある方には背を向けている。つまり,人目は少ないところ,ということだ。
「何処に行ってたの?」
「山陽からの預かりものを消化しに」
 隣に座ると在来線の出入りがだいぶ遠くに見えた。こちらのホームの方が高度があることも相まって向こうからこちらに気づく在来線はいないだろう。
 やはり上越は文句を言った。
「煙たい」
「お前に文句を言わせるためだ」
「なにそれ」
「しおらしいお前はつまらん」
 上越はいつのまにか東北を見ていた。その割にその目は見開かれて何を言っているのかと言わんげだった。聞きたいならば教えてやろう,東北はそう思った。
「何か減点要素があれば文句を言うのもたやすいだろう」
「ばっかじゃないの」
 吐き捨てながら上越はたばこ臭いと揶揄した東北の制服に包まれた肩に頭を預けた。こうやって上越が自分の所に戻ってくるように仕向けたのははたして彼なのか,自分なのか,東北にはその辺りは量りかねた。
上越は逃げるひつじさん。東北は待つおおかみさん。
20091012


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