「あ」
扉を開けてその中にいたのは京浜東北だけだった。そのシチュエーションだけで東海道にとっては,逃げたい半分,期待による動揺半分。
「東海道,今日は順調だった?」
「まぁそうだな。おおむねは」
東海道は東京から名古屋まで走っている。結局のところ鈍行のスピードで順調にその区間をつなごうとしてもどこかでほころびは生じるのだ。
時刻は既にかなり遅くて,首都圏の在来線を束ねる京浜東北以外はおそらくもう帰ったのだろう。確認の意図を込めて尋ねる。
「オレ,最後?」
「うん。君の日報をもらったら,宿舎に帰るよ」
「ごめん,今から書く」
「いいのいいの,君は神奈川と静岡と跨いで名古屋まで行ってるんだから」
京浜東北はそう言うと立ち上がり,執務室と続きになっている給湯室へと向かった。入れ替わるように先ほどまで京浜東北が座っていたパソコンに座り(もう電源の着いているのはその機械しかなかったのだ),日報のテンプレートに必要事項を入力していく。
ことん,という音がして,置かれた手元を見ると,東京の詰め所に置いてある東海道のマグカップから,あたたかそうな湯気が立ち上る。
「焦らなくて良いから」
「ありが,とう」
粉末のカップスープをお湯で溶いてくれただけなのに,京浜東北にされるとこうも落ち着く理由を,東海道はそれなりに理解している。今のところ,その先の踏み出し方など知らないけれど。
京浜東北は言葉通り自分にも同じものを作ってきたらしい。乾杯の代わり,と言ってマグの縁をふれあわせる仕草,眼鏡の上に乗ったさらさらの髪が流れるのに一瞬見入って,東海道も同じ仕草を返す。
「ただいま」
「おかえ……り?」
そのあと自然にこぼれた言葉に,東海道が首をひねるより前に,反射的に京浜東北が答えてくれた。その語尾は自信がなさそうに揺れて,違うだろ,と東海道は理解した。
まずそもそも東海道にとって東京がホームかと言えばなんとも言い難い。兄に倣えば名古屋がホームになるし,実際その先神戸までが東海道の領域にはなる。
けれども,こうして京浜東北が迎えてくれると,つい言いたくなるのだ。理由はうっすらわかっている。だから逃げたいし,動揺するし,わけもない高揚だって感じる。
妙な言い訳や言い逃れをするのは多分ぼろが出るので,曖昧に笑って日報をうつすディスプレイに目を落とした。キーボードをタイプする音にまみれて京浜東北が何か呟いたように聞こえたけれども,心臓が鳴り止まなくて,聞き返すことは出来なかった。
「つきあわせて悪かったな」
「ここまでが僕の仕事だから。明日も遠くまで行くんだから,良く休んでね」
宿舎の建物の中に入ると,どうしても声を潜める。こうして夜の廊下を誰かと誰かが逢い引きしているのを,いつもお互いに黙認している。
隣を歩く京浜東北をちらりと見下ろす。ほとんど身長は変わらないけれども,一体何を食べればこうなるのかと言うほど体型が自分より一回り細い。
在来線をとりまとめたくてその立場に立っているのかは,もうよくわからない。随分古い話だし,かなり西まで走る東海道は代わってやることも出来ない。
けれどその体を支えてやりたいと思う。あわよくば,その体やら心やらを癒してやれる存在になりたいと思う。その思惑がたとえ浅はかであろうとも,自分が誰よりも京浜東北に頼られる存在になりたいと思う。
一歩歩くごとに色素の薄い髪の裾が揺れて,ちらちら見えるうなじが白い。それを知覚した瞬間になんだかたまらない気持ちになった。
わかってはいる踏み越えられないライン。
そっと手を伸ばす。京浜東北は気づかないから,東海道の足も一緒に動いて,ただ指とうなじの距離だけ近づいていく。何を察したのか京浜東北が立ち止まる。髪の裾が,東海道が伸ばしていた指に触れた。
ゆっくり京浜東北が首を横にかしげる。今すぐそのままこの手でこの細い白い首を後ろからかき抱いて,唇を重ねたら,或いはその細い体を壁に押しやって,もっとどうにかしてやれたら。
気がつけば体が先に動いていた。驚いたらしい京浜東北が目を見開いたのは腕の中だった。二人が歩いていたのは宿舎のセンターライン寄りだったはずなのに,自分の腕が壁に当たっていた。
目があったのに,京浜東北は逃げなかった。
「逃げないの,か」
京浜東北は答えなかった。踏み越えられないラインだ,と思った。京浜東北の眼鏡のレンズが,廊下の蛍光灯を反射していた。その奥のまぶたが,一度,ゆっくり降りて,それから東海道を確かめるように開いた。
(なんで,こんなにも欲しい)
「っごめん」
京浜東北が何か言おうと口を開くように見えたけれども,東海道は捕まえていた腕をほどいた。その白目の肌がどんな色を浮かべているかは,くらい廊下の照明では見えなかった。京浜東北は結局,何も言わなかった。
無言のまま東海道が部屋の方へ足を向ければ,京浜東北は着いてきた。隣室だから当たり前だ。謝るのは何か違う気がして黙っているしかなかった。ただ,部屋の鍵を開けるとき,一度だけその顔を見た。
「おやすみ」
「うん,おやすみ東海道,良く休んでね」
言われた言葉は先ほどとほとんど変わらなかった。けれど京浜東北が彼にしては珍しく強い勢いで扉を閉めたものだから,東海道は自室の中に入り,一応電気をつけて,扉を閉めて鍵を掛けてから,その扉に沿って座り込んでしまった。
(オレ)
目を閉じる。捕まえたときの表情を,東海道は解しきれなかった。ただその目を,捕らえた喜びと来たらなかった。どうしよう,きっと明日も同じような想いを繰り返す。
細い体だった。そうして,体温は少し低かった。
(やばい)
たぶん,今夜は眠れない。
20090818