眼鏡のブリッジを押し上げて,わざとらしい溜息を一つ。高崎と埼京が息をのんでじっと自分を見つめてくる。高崎が見つめてくると言うことは,その背後からあの敵に回したくない男が自分を窺っていると言うこと。それから,自分の隣で様子を窺うような顔をして,実はすごく楽しみにしているのがわかる彼,まで察して。
「羽目を外しすぎないって,約束できる?」
「うんできる! 絶対!」
埼京の答えはまるで小学生のようだった。これだけ毎回いじめ倒されてよく懲りないでこのメンツと何かしようと思いつくなと思ってから,それは多分自分がこの連中(の巻き起こす日々のトラブル)をまとめているから勘弁して欲しいだけで,楽しいんだろうな,と思った。
結局ほだされるのだ。わかっていながら,京浜東北は言った。
「いいよ」
「やった!」
「マジでいいの京浜東北?」
「但し」
埼京と高崎がそれぞれ声に出して喜んで,調子に乗るといけないので釘を刺すのも忘れない。
「もし翌日の運行に影響が出たら,始末書ものだからね?」
しまつしょ,の響きに一瞬ひっと息をのんだ埼京と高崎だけれど,結局それは楽しい予定の前にかき消えたらしい。だってお祭りだもん! という埼京の声を皮切りに,浮かれた二人が浴衣! 浴衣が良いとか叫び出す。
夏の連休ラッシュも終わり,ほんの少しだけ太陽がなりを潜めた今日,某所の夏祭りのチラシを持ち込んだのは誰だったか。京浜東北はこめかみを押さえて,自分の許可が正しかったか悩んでいる。在来みんなでお祭りに行きたい! なんて言い出した埼京,あっさり乗る高崎もどうかと思う。
そして,誇り高き兄の手前はしゃいだりできないけれど,実は浮かれているのがわかる東海道も。他のメンツの目線が埼京と高崎に集中している間に,いいのか,とちらり横を向いて尋ねてくる彼の膝をぴしゃりと叩いておく。
「行きたそうな顔してたでしょ」
結局他ならぬ君がそんな顔をしてるんじゃ僕はうんとしか言えませんよ,なんていう京浜東北の思惑は知らず,東海道はそんな顔してねぇ,とまるで小さな子供のように拗ねた声で呟く。
「ねえ京浜東北」
代わりにわざわざ立ち上がって歩み寄ってきたのは宇都宮である。彼の行動は静かだから,ぎゃいぎゃい騒いでいる二人や他のメンツは気づかない。
嫌な予感しかしないけれど,心の広い京浜東北は,なぁに,と聞いてやる。相変わらずうさんくさい笑顔の似合う宇都宮は,隣の東海道に一瞥をくれてから,本当にいい加減にしてくれ,と言いたくなることを口にした。
「団体行動ってはじめだけだよね」
「はぐれてもいいですかって聞かれてもうんとは言わないよ。だいたいそれならそれこそはじめからデートに誘えばいいじゃない」
「ばかだなぁ,最初みんなで一緒にいたのに,あとから気がついたらはぐれてたから手をつなぐって言うシチュエーションがいいんじゃない。君だってそう思わない? 東海道」
「オレに聞くな」
関わらない方が吉,と言いたげに東海道は徐に目線をそらす。あっ,それ,宇都宮との会話を放棄するなんて僕がこっちのまとめ役だからって狡い,というのと,そのときに見えた,首を曲げたばかりに出来る筋と鎖骨の形を一瞬見て,それから,溜息を吐いて一言。
「仕事じゃないんだから,好きにすれば?」
「ありがと」
宇都宮は片手を上げて了承を受け取る。やりとりが終わって視線を戻してきた東海道が,高崎は楽しそうだな,とぽつり口にしたのと,ほぼ同時に。
「安心して,君たちにそんなシチュエーションをあげられるようがんばるから」
なんて宇都宮が言うものだから,思わず京浜東北はぎょっとして東海道を見てしまった。そういえばこの男があまり奥手なばかりにそういうテンプレートのようなシチュエーションにときめいて弱いことを知っている。
「ばかいってんじゃねーよ!」
隣の東海道ががたんと音を立てて椅子から立ち上がる。その音に部屋から注目が集まったのが分かる。あぁ,宇都宮の目の奥が余計に笑った。もう何も言わないで,思わず服の裾を引っ張りたくなった京浜東北の願いも空しく,東海道は大声で宣言するのだった。
「デートに誘ってうんって言ってくれるならこんなじゃよろこばねーよ!」
色々と周りの目を通り越して,そんなこと言うならまず誘ってよ,と思う京浜東北の思惑も,空しく夏の終わりの会議室の一瞬の沈黙に溶けていくのだった。
20090821