東京駅の夜のホームはもう誰もいなかった。当たり前だ,夜は夜でももう午前二時だ。寝ないことが苦痛であるタイプではないけれども,寝ないと辛いよなぁ,と思いながら,京浜東北は宿舎のベランダから一度明かりの落ちた職場を見下ろす。
 それから徐にマッチを擦った。ライターを持つのは怖い。喫煙常習者ではないつもりだし,常習者になろうものならば東日本の在来線をまとめる立場に立ってはいられない。  夜の闇が一度マッチの炎の明るさが邪魔されて,それからくわえた煙草の先端が燃え始めたから右手を振る。しゅ,と言う音を立てて明るさは消える。
 一口目を一番深く吸って,後はルーティーン。重い煙草を吸わないのは,アルコールよりむしろ煙草の煙の方が体に残るような気がするからだ。むしろただのスタイルという程度,どちらかといえばニコチンに勝るほど甘いフレイバーを楽しむ,そんな煙草を吸うのは,単に気持ちを落ち着けたいという働きの方が強いのだと思う。
 今日はトラブル続きで神経の先まで尖っている。自分の人身から始まって,あっちやこっちでの積み残し,車両点検,微妙な遅れを補正するのは南北にかけて首都圏を縦断している自分の仕事だ。そんなトラブルがさしたる問題かといえば大体毎日のことで困りはしないのだけれども,今日は会えるはずだった人に会えなかった,たぶんそれがいけないと思う。
 隣の部屋は静かだった。ベランダから柵を軽く乗り出してみれば様子を見ることは出来るのだけれども,あまり期待通りの展開があるとも思えないからそんなことをしようとも思わない。せっかくわずかにすれ違える時間に会おうと約束していたのに,それがかなわなかったのが自分の不始末のような気がして,いまはなおさら東海道の顔を見る気になれなかった。
 吹き流した煙草の煙が空に上る。暗い空に立ち上る煙がなお見えるのは,夜の道路を絶え間なく走る車のライトが煙の粒子で反射しているからだ。ひとつひとつの出来事は些細なのに,そして自分にとって自分のしたい出来事は些細な一つだけなのに,それがかなわなかったことがこんなに辛いなんて。
 ニコチンはメンソールとラズベリーのフレイバーに持って行かれて殆ど何の功も奏さなかった。だからいいのだ,この煙草は。一番上の抽斗の,一番奥に入っている京浜東北だけの秘密。滅多なことがないと引き出されないそれが,けれども切れたこともない。
 だって口寂しいのだもの。
 ひとりごちようかと思った言葉も出なかった。たぶん女性に向けられた煙草は直径が細くて,男の中できゃしゃといっても女手ではない京浜東北には些か落ち着かない。たとえばそれが似合うようなかわいげでもあれば,隣の部屋をノックして甘えて,できれば必要以上に絡み合って,そんなことだってできるのに。
 二口目は細く長い煙を吐き出す。ため息ではない,と思いたい,そう思った瞬間に,隣の部屋のベランダの窓が,からから音を立てる。
 心臓が,ぎゅっと締め付けられる。
「よお」
「こんばんは」
 ひょい,と防火壁越しに東海道が顔を出す。一応そちらに一歩歩み寄って体を傾ける。なんで,とか,煙草,とか,そういうことばかりが一度にぐるりと頭を回る。東海道は片手に缶チューハイを握っていた。
「寝酒?」
 口に出来たのはあどけないような疑問だけだった。見ればわかるだろうことしか言えないのは,つまり焦っているのだろう。
 会いたかった,と,言いたい。
 言えるものならば。
 右手に缶チューハイを握る東海道が,左手を伸ばしてきて思わず何も出来ずにいたら,その隙に京浜東北が左手に握っていた煙草を奪われた。
「お前,まだ左手使うの」
「ごめんなさい」
 大昔に左利きを矯正された思い出が不意によみがえり,反射的に謝ると,東海道も困ったように笑った。いまよりも未だ若い頃に彼に直されたのに,いまでも無意識の動作にたまに左手を使ってしまう。
「吸うの似合うんだけど,心配だからやめとけ」
 吸いかけを缶に落としながら,東海道が不意にそんなことをその表情のまま言うものだから,誰のせいで,と思わず叫び出しそうになった。忘れてはいけないけれどもいまは夜で,まかり間違っても彼に口寂しいなんて言ったところで飴でも渡されて終わりだろう。
「飲みかけだったんじゃないの」
「殆ど無かったから」
 代わりにあり得る疑問を装って一歩近づく。その自分よりほんの少し高いところにある顔をのぞき込むそぶりを見せると,たぶん彼が飲んでいたグレープフルーツのにおいが少しだけした。
「明日は,会えるかな?」
 彼がこの質問に何の意図を見いだしているかなんか知らない。会いたいと思っている理由をわかってくれているかどうかなどわからない。京浜東北として言いたいことは,いい加減に気づいてくれないと,もうそろそろどうにかなってしまいそうだということだ。
「東日本在来が,ちゃんと動けば会えるな」
「卑怯だよね,そうやって僕は東京で仕事するんだから」
 少しだけ目を背けるのは,仕事にかこつけて自分を選ばない東海道を見たくはないから,そんなひどい心根を言えるはずもなく,ただ,単純に東海道が,京浜東北が振り向かなければならないような何かをしてくれればいいと望んでしまうから。
 グレープフルーツのにおいが強まって,え,と思って理解する前に身を乗り出してきた東海道に頭を軽く撫でられた。何,その扱い,聞くに聞けない京浜東北の上に,徐に言葉が投げかけられる。
「オレも,東京の方で仕事したいけどな」
 なんて。
 聞き返したくて聞き返せない。意図を知りたくて知りたくない。頭に手を載せられたまま,少しだけ上目を使って東海道を見上げる。とたん息をのんだ彼は,たとえば鍵を開けているとか言えば,来てくれたら自分はどうなってしまうのだろうか。
(そんなのおかしくなるに決まってる)
「もう,馬鹿」
 どうにかしたいのならさっさとしてくれと言う代わりに。
 少し背伸びして,煙草を取り上げられた左手で,防火壁越しの東海道の後頭部を強く引き寄せる。もしかしたら誰かが見ているかもしれないと思ったけれど,もう止められなかった。東海道の目が大きく見開かれる。ただ,唇を重ねたとき,東海道の唇からかおるグレープフルーツと,自分ののどから香るラズベリーメンソールが混じり合って,もうひどく酔ってしまいそうだった。
「さっさと,来てよ」
 言えたのはそれだけだった。とたんに唇からアルコールが体を巡って,まるで酔ってしまったように,顔や体が熱くなった。思わず顔を見ることもできずにベランダから部屋に戻る。後ろ手にぴしゃりと窓を閉める。隣の足音は下のフロアの宇都宮の耳に入ることだろう。明日にはなんと言われることか。それでもわき上がる歓喜のような熱に体がほてる。狭い部屋のソファーにへたり込んで,眼鏡を外して,口元を押さえる。
 それでもどうしようもない彼も,自分も,まだまだたぶん青いのだろう。

もう夢を見すぎている自分が気持ち悪いです。
20090831