京浜東北がいらいらしているのは,目に見えていた。
 埼京はなるべくその低気圧に巻き込まれないように,賢明なことに京浜東北と部屋の対角線上にあるパイプ椅子に落ち着かない様子で逃げていた。乗り入れ先のりんかいのところへ逃げ出すタイミングを探していているのが目に見えている。案外休憩室に寄りつかない山手は不在,珍しく大崎まで湘南新宿ラインの様子見がてら南下してきた高崎と自分とでは手のつけようがないというか,煽るばかりになるので,とりあえず背を向ける形になるソファに二人掛けて,黙っておく。そして同じ湘南新宿ラインの南の先,東海道ががちゃり,扉を開けて大崎の休憩室へ顔を見せた。
 その彼が徐に顔をしかめたのは,京浜東北が漂わせている負のオーラか,ゴミ袋に詰め込まれた使い物にならなくなった制服か,机の上のゆがんだ眼鏡か,はたまたシャワーから上がり立てで目にまぶしいその白い肌か。
 まあ最後だな,と振り向きもしないで確信を持って思っておく。
「無事か?」
「僕自体はね」
「眼鏡持ってきた」
「ありがとう」
 そもそも京浜東北が大崎にいるのがおかしい,と来た瞬間からの疑問がこれで解消された。東海道が来るのを待つのに,かつ現場に一番近いのが大崎だったのだろう。
 京浜東北は目が悪いからスペアの眼鏡は確かみっつほど持っているはずだ。そのありかを正確に把握しているのは本人と極近しいもので,宇都宮も京浜東北に場所に明示された上で依頼されたらたぶん取りに行けるけれども,先ほどから見物している限り,京浜東北が架線点検以外の目的で外部と連絡を取っている気配はない。
 つまり頼みもしていないのに東海道は大崎までやってくるし,頼んでいない京浜東北は東海道が来るまで動くつもりがなかったのだろう。二人ともたいした根性だ。
 漸く眼鏡を掛けてすこしだけ自我を取り戻したらしい京浜東北が,あ,服,と呟く。大崎には大きな車庫があるから服の着替えくらい少し歩けば,と言おうと思ったけれども,東海道がぶら下げていた黒い鞄を差し出す。
「横浜から持ってきた」
「あ,ありがとう」
 埼京が対角線から辺上を移動して,無言で逃げようとしているのが分かる。高崎と一瞬目をかわすと,にっこり笑って埼京に口だけで,おもしろいから待ってれば,と伝える。あのこぼれ落ちそうに大きな瞳で一度まばたきをして,埼京は結局残ることを選んだらしい。
 ソファを仕切りに自分たちの背中で繰り広げられているメロドラマのような何かを,見ないで逃げるなんて勿体ない。いや,案外埼京の相手の男と来たら埼京に甘いらしいから,見慣れたたぐいのものかも知れないけれど。
 横浜の会社には滅多に世話にならないから,構造が分からないけれども,共用ロッカーのようなものでもあるのだろうか。それでは面白くない,と思って考える。部屋の合い鍵を渡されるような甲斐性は東海道にはないから,せいぜいロッカーの鍵くらいだろうか。  知らず唇の端が上がっていたらしく,それはそれで埼京と高崎が肩をふるわせていた。ばか,きづかれるよ,と囁いて指をひとつ立てる。
 尖っていた背中の気配がだんだん和らいでくる。衣擦れの音は,たぶん京浜東北が制服を着替えているのだろう。東海道の顔はたぶん今,見物だ。けれどたぶんもっと面白い瞬間があるから,ぐっと黙っておく。
 ぱさり,髪が揺れる音がしたのはたぶん詰め襟に入り込んだ髪の裾を払ったのだろう。京浜東北が着替え終わった,さあ,どんなボロを出してくれるだろうか,東海道は。
「持ってきたが,吸うか」
「ううん,大丈夫。だいぶすっきりした」
 埼京が大げさに驚いて目を見開く。宇都宮もさすがに少し驚いた。京浜東北が煙草を吸うなんて初耳だ。
「わざわざありがとう」
「お前,煙草吸うの」
 京浜東北が東海道に礼を言うのにかぶせて,高崎が背後を振り向いて尋ねた。その口元が引き上がっているので,ああ,このタイミングだ,と確信する。
「京浜東北が吸うなんて意外」
 宇都宮の左に座っていた高崎が右に振り向くから,高崎の右に座っていた宇都宮は左に振り向く。胸ポケットから細いパッケージのピンクで花柄があしらわれた煙草を中途半端に抜き出した東海道と,ほとんど同じ背丈なのに体型が違う京浜東北が向かい合って固まっている。
「たまにね」
 口を開いたのは京浜東北だった。答えながら自分たちの方を向くその表情は色々と鬼気迫るものがあって,自分たちの背後にいる埼京が代わりにまた何かかわいそうなほど引きつった息をのむ。
「でも東日本は禁煙だから,仕事中は吸わないよ」
 だから良いでしょう,とその青い目がいっている。
 何が良いか? 吸わないことが,ではない。東海道のことをそっとしておいて,とその目がいっている。
 そっとして居続けてるから君が不機嫌になるんでしょう。
 目だけで答えてやると,やはり京浜東北は秀麗な顔を不機嫌そうにゆがめた。
「悪かったな」
 なにやら曲解したらしい東海道が京浜東北にわびた。くるり振り向いて東海道に向き直る京浜東北の表情のいじらしさと来たら! 高崎と顔を見合わせて,次のタイミングを計るのだけれど,それより早く東海道が,いつも通り口を開いてボロを出す。
「じゃあ夜に吸うか」
「そうす……る」
 素直に答えてから,東海道が胸ポケットに煙草をしまう一瞬に京浜東北は一瞬こちらに目線をくれる。ああ,その牽制はちょっと逆効果じゃないかな,にこり笑うと,計ったように空気を読まず,後ろから明るい声。
「二人とも大人だね!」
「大人ならそんなにまだるっこしい約束しないんじゃない?」
 固まってしまう東海道とぎりと睨み付ける京浜東北,埼京を救う意図もなくただ京浜東北を煩わせるために間髪入れず突っ込んだ自分のツッコミと来たら,本当に冴えている。

これで夜も何もしないことはないと流石に信じています。
20090906