扉を開けると,いつも通り物静かな姿をした京浜東北が,長い机の端の方でノートパソコンを叩いていた。つまり明日の準備だろう。首都圏に台風が上陸するのしないのという天気予報はもうかれこれ3日くらい前から執務室の面々の話題だ。
目が合うと京浜東北は静かに人差し指を唇の前に立てた。埼京は空気を読めないし会話のタイミングを掴むのが苦手だけれども,それはけして誰かを不愉快にしたいからではなくて,本当に読めないのだ。だからこうやって京浜東北が明確な指示を出してくれれば周りを見渡すことだって出来る。はじめから周りを見渡せばいいのだけれどもまだ視野の狭すぎる自分にはそれの出来ない日の方が多い。
壁に無理矢理うちつけた杭は随分長くハンガーラックの用をなしているけれども,そこに随分と色の変わったこいオレンジ色の上着が掛かっていた。北の方の二人でもなければ,随分と大回りのぐうたらの色でもない。どちらかといえば埼京にとっては苦手な相手だ。何をやるにも堅苦しくて,けれども間違いなくその歴史はまさしく鉄道の歴史である彼。
京浜東北の背後にある長いすで彼はぐったりと横になっていた。随分と髪がつややかなのは単にびしょ濡れだからだろう。
「東京より,こっちの方が一日早く雨に浸かるでしょ」
京浜東北が端的に説明してくれた。
東海道はその名の通り随分と西までがその管轄だから,気候の変化は首都圏在来よりも一日早くかかり始める。確か今日の彼の朝は名古屋だったはずだったから,東京まで来る間にずいぶんな目に遭ってしまったのだろう。
「珍しいね埼京,君がこっちに来るなんて」
紅茶でも飲む? と尋ねられたので,ふるふると首を振った。たぶんいま京浜東北がかかえている案件が自分の要件だ。むしろ京浜東北の仕事の邪魔をするつもりはない。
近くのコーヒーショップで差し入れをかねて小さなラテを二つ買ってきた。二つなのは多分誰かもう一人くらいはいるだろうという適当な読みだ。だが,京浜東北はその手元に気づいたのか,気が利くようになったね,と褒めてくれる。
多分信じてくれないと思うけれども,埼京は京浜東北が好きだし尊敬している。大宮と都心を結ぶのは遙か昔から彼の仕事だし,目指すべき理想像は京浜東北だ。時々切れると怖いけれども基本的には冷静沈着だし,秀麗な容姿も自分のような幼さはない。
以前こっそりと宇都宮が京浜東北だって小さな頃があったんだと教えてはくれたけれども,知らないから仕方がない,としか言えない。
「明日の対策書類もらいに来たの」
「ああ,もうできるからちょっと待ってて」
指示に従って,長い机の京浜東北の近く,その手元が見える辺りの椅子を引く。後ろに見える東海道は随分とぐったりしていた。上着は乾かしているからワイシャツで,仮眠用の毛布をどこかからひとつかっぱらってきたらしい。
自分用に買ってきたホットチョコレートを啜りながら,京浜東北の軽快なタイプに聞き入る。目を瞑れはふと眠気が襲ってきそうだけれども,そのまぶたの裏に意味もなく浮かんだ姿に目が覚める。
最近はずっとその繰り返しだ。
京浜東北は好きだ。怖いところが多いけれども,東海道だって好きだ。高崎や宇都宮だって自分をいじめてくるところは好きではないけれども,嫌いだと言うことはないし,山手は案外なんでも受け入れてくれるから良い友達だ。
けれど,誰とも違うのだ。
「ねえ京浜東北」
「どうしたの」
「恋って,落ちるものだと思う?」
良く磨かれたレンズの向こうで,一度ディスプレイから目線が上がって埼京を見る。その扇のようなまつげが一度ゆっくりと降りて,それから上がるのがよく見えた。それくらい,その言葉を引き出した自分は緊張しているのだと思う。
京浜東北の沈黙は不自然だとは思わなかった。たぶん突然何を言い出すのだろう,と思っているのだろう。それとも,真剣に考えてくれているならばそれは嬉しいし。
「……りんかい?」
たっぷりの沈黙の後,引き出された言葉はそれだった。
今度は埼京が沈黙する番だった。
がたんと椅子を蹴って飛び出したいくらいだったけれども,東海道が休んでいるのにそれは気が咎めて,結局埼京はいたたまれない気持ちになってうつむいた。ふと京浜東北のタイプ音がやんで,立ち上がる音がする。スリープモードだったレーザープリンターが鈍い音を立てて起動する。
「落ちるときの加速度は,違うけど」
京浜東北の目は埼京を見てはいなかった。だから埼京はぼんやりと京浜東北を見ていた。ほんとうは京浜東北を見ていなくて,ここに彼がいればいい,とふと思うのだ。
「気がついたら落ちてて,もう戻れなかった」
結局京浜東北が告げたのはそう言うことだった。
「京浜東北にもそんなことはあったの?」
「忘れた」
今度の答えは驚くほど早かった。プリントアウトされた資料を,複合機の上に置いてあるホッチキスでぱちり。手元にするり,出してくれるその手も好きだけれども。
「僕は業務にさえ支障が出なければ,なにもしても良いと思うよ」
それくらいはリーダーとして甲斐性を見せてやらなきゃと思うし。
付け加えられた言葉にぱちり,瞬いて,埼京は笑った。この資料を持って,今から会いに行く人に,何も言えない自分だけれども。
「そう思ってた頃があるからね」
励ましてくれているらしい言葉の意図まではすべて読み切れないけれど,いつか京浜東北のようになりたいと思っている埼京にとっては,なによりも嬉しい言葉。
飲み干したホットチョコレートをダストボックスに放り込むと,じゃあ,東海道が起きたらよろしくね,と伝えて,その部屋を後にした。
長いすに横になっているその姿は昔から変わらない。あまりに多くをかかえるが故に、打たれ弱いこの人を支えるために自分は生まれた。
目を瞑った表情は本当に昔と変わらなかった。顔色が良くない。毛布をかけ直そうと端をつまみ,それからすこしだけその場で見下ろしてしまった。
何が何でも彼の支えにならなければならないから,ただ手を伸ばしていた頃。
気がついたら,落ちていた。
天井を見失ったのはいつだったか,一人で笑って,毛布をかけ直そうとした手をいきなり捕まれた。見上げてくる目の,一番強い印象を与えるのはそのふちどりだ。目の領域をはっきりさせる暈けないラインにとらえられて,もう,今では初めから底にいたとしか信じられない。
「お前にも,そんなことはあったの?」
「忘れた,ってば」
たぶん京浜東北の答えを,知っているくせにわざわざ尋ねるところを,好いているのだろうと思う。
20090919