「珍しいもの見つけた」
大井町の駅に長居するのは確かに珍しいな,と声を掛けられながら京浜東北は思った。秋晴れの遠くまでよく見通せる日だった。この辺の線路は自分たちが傍若無人なほどにまっすぐ引いているから,どこまでも遠くまで自分たちの線路が続いているような,そんな気さえした。
その声に京浜東北は振り向かなかった。あまり話しやすい相手ではないし,振り向いて丸め込まれるのも御免だし,一応埼京に義理立てしたことになるのかな,と自分でも首を捻る。
「君が大井町で暇をつぶしてるなんて珍しいじゃない」
「そうだね」
芝居がかった仕草に芝居がかった口調の男は,何を考えているのかわからないという一点において不得手としていた。けれどもそのすがたはガラス窓に反射して,奇妙なほど圧迫感のある黒を演出している。
北側の階段を上れば,向かって左の改札に私鉄が発着するのが見える。それをそのまま通り過ぎて,大きく取られたガラス窓は,随分と贅沢な無駄だと京浜東北は思っている。それこそ何年前からという単位で,だ。
レールの向こうの方で,かたん,と言う音がする。一本のレールに彼の電車が乗ったのだ。彼は通り過ぎるときに自分が大井町の二階から見下ろしていることに気づくだろうか。見上げてくれるだろうか。隣にいる男に気づくだろうか。どういう感情を抱くだろうか。
ごうごうと音を立てて通り過ぎていったのは東海道の普通電車だった。そうすればいまから品川に入るに当たってあの電車は減速するだろう。大井町にいた京浜東北のことを振り返るように,たらたらとしたスピードになればいい。
「存外,君は振り回す人間なんだね」
「そう?」
電車が通過してしまったので,仕方が無くずっと後ろにいたりんかいに振り返る。ずっと彼はそこに笑っていた。別に今更考えていることがばれるような相手ではない。たぶんはじめに顔を見たときから彼は気づいていただろう。
「こんなまっすぐな線路で,相手を振り返らせようと考えるなんて,相当じゃないの」
「君に言われたくないな,接続しておきながらいつまでたってもへらへら」
「何のことかな」
黒いシャツがその大げさな動きに合わせて衣擦れを起こす。ああ,埼京くらいの年頃は悪い男に引っかかる年頃なのかな,と京浜東北は他人事のように自分の過去を少しだけ思い返す。
またレールがかたんと鳴った。たぶん今度は自分の電車が品川からこちらへ走ってくるのだ。あまり自分の電車と東海道の電車は同時に止まらない。ダイヤの関係でそうなっているだけだ。けれども,東海道はきっとそんな些細なことは気にしないだろう,と思う。
「切ない横顔だったよ」
「は」
「さっき,東海道が通過していくときの君ときたら」
それを放っておけるなんてたいした物だね,東海道も,というりんかいの言葉は敢えてスルーしてもう一度線路に目線を投じる。
抜けるような秋晴れの空,どこまでもまっすぐに伸びていく線路。そこにある浮遊感は,よく命を投げ出したくなる人を抱えている自分だからこそ,理解できるような気もした。
「こんな日はね」
不意に切り出した言葉に,今度はりんかいは何も言わなかった。その空気を読めるスキルをぜひとも埼京に一つ分けてやって欲しいと思ったけれども,自分の純情のような言葉が先を急いでうまく伝えられない。
「飛びたくなるよね」
あんな目の前を走っていくのに,届かないなんて寂しいと思わない?
りんかいはやはり何も言わなかった。けれども振り向いて京浜東北が笑うと,仕方なさそうにつられて笑った。やはり埼京がはまりたくなるような悪い男だ,と思った。かつての自分がそうだったように。
「飛び込めばいいじゃない,そんなに欲しいなら」
「今更,君にそんなことを言われたくないね」
りんかいはおかしそうに笑った。京浜東北も肩をすくめて笑った。
可愛いところがあるじゃない,なんてからかってくるりんかいに,京浜東北は君もね,と返しておく。
「いっそ届かなくても良いんだ」
「そうなの?」
「届いたら壊れてしまう」
また,かたんとレールの鳴る音。今度はたぶん特急列車だ,と思った京浜東北の勘は外れることなく,振り向いて下のレールを見下ろせば踊り子が遙か南へと向かって走り出す。
「そんな物欲しそうな顔をして?」
りんかいの言葉にすぐには振り向けなかった。踊り子が長い車両を携えて走り,そして大井町のホームを通り過ぎてはるか南へと消えていくまで,京浜東北はぼんやりと下を見下ろしていた。そうしたら自分の南行の電車も大井町に滑り込んできて,ああ,おいつけない,と思う。
「……純愛をからかうのはルール違反でしょ?」
「そうだね」
りんかいがまた笑う。笑おうと思っても笑えている自信はなかった。肩をすくめて振り返る。遠くから,りんかい! と呼ぶ幼い声が聞こえた。ああ,そうやって素直に呼べることが妙にうらやましい,と思った。
「ほら,呼ばれてるよ?」
「嫉妬する?」
「りんかいと埼京に嫉妬して僕に何の得があるの」
言い捨てて,ホームへと階段を下りる。埼京が自分には気づいていないといい,あの純真な目にそんなわけもなく嫉妬されるのは些か気が咎める。
降りた先の自分のホームはやはり傍若無人なほどにまっすぐだった。南行の発車を見送る。滑り込む北行を選ぶのは,たぶん,こっちの方が東海道に会わないから。
「たまには追いかけてくれても良いと思うんだけど」
独り言は,どこまでも見通せる秋晴れの空に投げかけられただけだった。
20090927