雨が降ってこないだろうと高をくくって午後からの会議に出かけたら、会議の途中でみるみるうちに鈍い色の雲がビルの高層階まで降りてきて、雨粒が盛大にガラス窓をたたき始めた。その変化たるやまさしく夏の夕立で、思わず会議中にも関わらず、先方と、それから同席していた京浜東北と顔を見合わせて苦笑いをしてしまう。
銀座の中央通りに面した企業との会議にふらりと、なかば散歩も兼ねて東京駅から歩いていった。京浜東北は会議へ向かう最中は真面目にこれからの会議での話をしていたのに、気に入っている喫茶店の前を通るときにすこし表情をゆるめて、帰りに寄りたいね、なんて言っていたのに。すこし様子を見ますね、と言って席を立った彼の目には、繁華街をせわしなく駆けずる人々の姿が目に映っていることだろう。
「やむを得ません、ねえ東海道、僕らの不注意だもの」
先方に敬意を払って会議の続行を促しながら、京浜東北の目が東海道を見た。少し悪戯そうに目尻が緩むのが見えた。自分に向けられた特別な色を分からないわけではない東海道だってふっとくちびるの端を上げて答える。ふたりだけの、会議の最中の、なんの意味もないけれども色を交わすようなサインは、すこし心地よかった。
会議の内容が終わってからも、すこし待てば雨は上がるのでは、と先方が気を使っていすを勧めてくれたが、よくわからない自分たちの遠慮深さでそれを断ってしまった。あるいは、はやくふたりになりたいというサインを敏感に拾ってしまう自分の愚かさがそうさせるのか。
会社に余っていたというビニール傘を一本だけ借りて、銀座のビルから、東京駅まで、有楽町駅から山手に乗れば十分のルートを、三十分かけて歩きたいという京浜東北の希望は、何もいわなくても東海道には伝わっていた。
「タクシー、乗ってもいいんだよ」
たくさんの人が様々な店の軒先で雨宿りをしている銀座の広い歩道を、京浜東北は当然のように東海道に傘を持たせながら、それでも少しの遠慮の精神を持ち合わせているのか、言った。京浜東北は言いながら、たぶん初乗り、悪くて千円以内で東京駅に到着することのできるタクシーに乗ってしまって、二人きりの時間が損なわれることをきっと厭うだろう。わかっているから、東海道は小さく笑うだけだ。
「乗ったらやさぐれるくせに」
「なにそれ」
「歩きたいんだろ、ふたりで」
平均以上には体格の良い二人が小さなビニール傘一本では収まりきるはずもなくて、必然的に、といういいわけをして、二人の距離が傘の内側で近くなる。別にコンビニで傘を買えばいい。メトロの丸ノ内に世話になってもいい。けれどもそうはしたくないのだ、二人の小さな意地のようなもので。
往き道で通りすがった喫茶店は残念ながら雨宿りの客で埋まっていた。京浜東北はそれに一瞥だけをくれると、なんの未練もなさそうにすたすたと歩いていく。
「良いのか?」
「傘の下の方が、ふたりでいる感じがするでしょう?」
東海道が尋ねると、京浜東北は、と東海道の方を見上げて、そしてその髪がふありと揺れる。喫茶店のテーブル越しより、この小さな傘の下で、肩を寄せて笑っている方が好ましいという。その彼を、かわいい、と思う自分の視界はきっと、突然の夕立で濁ってしまったのだ。
外では、いつも仕事のできる京浜東北と互いに尊重しあえる関係でいたいと思うのに。これでは、なんだか必要以上に甘えてしまう。京浜東北の笑顔にやられてしまう。
「いいんだよ、東海道」
東海道の逡巡をどうやって見透かしたのか、京浜東北が、すこしだけつま先をたてて、すこしだけ高い位置にある東海道の耳元に口を寄せた。銀座の路上でやるのには恥ずかしい仕草だけれども、傘の中だから、仕方がない。ついでに、傘を握っている東海道の手にそっと手のひらを重ねて、そして京浜東北は彼の細い指を、一本ずつ滑り込ませてくる。
東海道の理性だとかモラルだとかを打ち壊すかのように。
「僕、君に甘やかされるのが、すごくしあわせ。君みたいな人に甘えて貰えるのって僕だけでしょう、だから甘えて貰うと結局、僕も甘やかされてるんだよね」
ここが銀座の路上でなければ!
東海道は切に思う。あの部屋なら、うまくなだめすかしてベッドになだれ込んで、いたずらに笑う彼をキスで溺れさせてやるのに。
けれども彼の中でそんなにうまく東海道に甘えてくれないだろうから、これでいいと言えば、いいのだけれども。
20100420