ひとりきりで仕事を始めた時の、心細さを今でも覚えている。
 この国にはじめて鉄道が通って、はじめて新橋から横浜を繋いだあの頃のことを今でも覚えている。たぶんどれだけ時が経っても忘れることのない記憶だ。手本とする存在もいまだこの国にはなくて、ただひとりで生きて行かなくてはいけないと強く決意していた。たとえこのあといくら鉄道が生まれ走ろうとも、自分よりも先に立つ存在はきっといないのだ。そんなことを自分に言い聞かせて臨んだ海を今でも覚えている。
 目を覚ました時に不意に思い出したのはそんなことだった。暑い一日になりそうだった。始発よりも早く起きるのはおじいちゃんみたいだね、と笑う彼はいま、自分の体に巻き付いてまだ眠っている。それは必要以上に暑い寝覚めになるはずだ。
 腰の辺りをぎゅうと抱きしめて眠っている京浜東北は、眼鏡もかけていないし、書類も持っていないし、幼い見た目をしていて愛らしかった。実際京浜東北がなにをしても、大抵のことではもう動じない。そんな時期はとっくに通り過ぎた。
 彼を起こさなくてはならない時間まであと少しあった。目覚ましが鳴るよりも早く目覚めるのは確かに年をとってからだなぁと思った。
 手触りのいい、海縁で焼けた髪を指で梳かす。同じような海縁でも、自分が走るような広大な太平洋を直接彼は知っている訳ではない。もっと都市部を走っているのに、こんな色になってしまった。そういう、無駄に繊細さを強調するようなところを、それでもまだいとしいと思う自分は、それ以外の価値観を持ち得ないのだろうな、と時々思う。
「ん、」
 触れられているからか、京浜東北が薄い瞼を開いた。隣で横になったまま甘やかす東海道のことをぼんやりと空色の目が見て、二度瞬きをして、それから彼はふわりと笑う。
「おはよう東海道、もうそんな時間?」
「もう少しだけ寝てられるぞ」 「ううん」
 言いながら、彼は東海道の胸板にまたすり寄ってくる。これ以上詰める距離なんてないのに、隙間があることが煩わしいと言わんばかりに、顔をすこし動かして、落ち着くところがあったのか、おさまった。
「東海道」
「なんだ」
「僕がいるよ」
「どうしたんだ」
「きょう」
 最初の、日でしょ。
 たどたどしい寝起きの言葉は、年表を丸暗記している彼の、スケジュール把握能力が零したただの事実だ。自分は鉄道の日というのをもうけてもらって華々しく開業日を設定して祝ってもらっているし、この日は仮営業の日に過ぎなかったわけだから、何も残っていなくても何も驚くまでもない。
 それでも。
 あのはじめて自分の車両を稼働させた、はじめて人を乗せて走ると言うことをしたあの日のことをきっとわすれない。一日、一挙一動何もかもを、どれだけ緊張していてもうまくやれる気がしなかった。怖かった。それでも、走らなければならない、そんな日だった。
「だから、もう不安にならないで」
 胸板に顔を埋めて言う言葉は彼らしくないし、そんなことを言われるまでもなく、それは随分と遠い記憶でいまさら怖い物なんてないつもりだった。ただ、そうやって甘えるような彼の仕草にすこしだけ嬉しくなって、それで東海道は、大人しく甘やかされてやるのだ。
「ありがとう、京浜東北」
「ふふっ」
 笑う吐息がかわいいのはいつものことだ。
 二人に起きざられた目覚まし時計が鳴り出すまでもうすこし。甘やかしているのか、甘やかされているのか分からないこの時間を、あの頃の自分の不安を拭うように、抱きしめたいと思った。

6/12は恋人の日で東海道本線の仮営業日。何処に出しても恥ずかしくない恋人です。
20100616