嫉妬なんてものは飽きるほどし尽くした。生まれた場所が違うのに一緒にいる時間が短いと愚痴る方が筋違いだ。分かっているから止められない。この遺伝子も名前も何一つとして欠けるべくところのない幸せなものだというのに、それでも京浜東北は羨望を止められない。
「京浜東北」
彼はいつも律儀に自分の名前を呼んでくれた。長いからと通り名の根岸で呼ぶものの方が多いのに(教師ですらもそうだ)、東海道という男だけはけしてそんな半端な事を許さなかった。
理由なんて知らない。もしかすると二つめの名前なんてものを呼ぶのが面倒なだけかも知れないと分かっている。けれども、たったそれだけのことがどれだけ特別になり得るのか、彼が知らないと言う事はやはり罪だ。
ことさらゆっくりと京浜東北は振り向いた。東海道は試験管を持っていた。中には希塩酸、水酸化ナトリウム水溶液の滴定実験を前に、メスシリンダーで正確な重さを量りとるのを彼に任せていたのだった。実験の班は何時だって東海道と京浜東北で同じだけれども、それは教師が京浜東北の名前をほんとうに根岸だと勘違いしてくれているからだ。と、とね、は五十音順が案外近い。
「BTB液」
「はい」
まるでさもそれを取り出すために与えられたトレイを漁っていたかの如く見せかけて、京浜東北は東海道の手元につつがなくBTB液の入った瓶を出した。スポイトの入った試薬は静かにその色を変えてしまう。自分も何も音を出さずに色を変えて彼に想いを伝えられたらどれほど楽だろう、と京浜東北は思った。人は出来もしない事に憧れるように出来ているのだ。
東海道は落ち着いた手つきで試験管にBTB液を一滴垂らした。京浜東北はただその手元を見ていた。彼の手が筋張って大きい事に気付いたのは、先日弁当箱を開ける手を見ていたからだった。
面倒な性質があるのはこの学校の多くの生徒に言える事であり、というかそもそも面倒ではない人間なんてこの世の中にはないと思う。この東海道という男も、教師である兄に対してひどく弱い。家庭内の状況などひとそれぞれで知った事ではないけれども、例えば、自分がもしも彼の身内だったら、くどいくらいに丁寧に色を考えた弁当を入れてやるのに、とは思う。
「色、変わったな」
東海道が一滴落としたBTB液が、ビーカーの中で黄色に広がった。液体の中に液体の落ちる、曲線だけで作られる曖昧なカーブは見るのがたまらなく楽しかった。
京浜東北はそのビーカーに注目していて、それはこれが化学の実験だから当然の事なのだ。落ち着いた色の変化が、まるで彼の感情に対する自分のすぐに揺れ動く心情とやらを表しているようで滑稽だった。
「そうだね」
動揺を表に出さないのが、一番良い事ということを知っている。
もしも上手く京浜東北が東海道にこの想いを伝えられたならば、それはどれほどいいだろうかとは思う。けれども二人はあまりにも交わらない線の上に立っている。自分が三階の廊下を東に行けば、東海道が二階の廊下を北に行くと行った具合に、二人はどうにも性格も生き様も違いすぎる。
兄を見習って彼は理系の学部を選ぶのだと聞いた。どういった仕事をしたくて、どうしてそうなったのか、京浜東北には理解できなかった。自分が特別な人間になれるとは思えない京浜東北は、きっとそれなりに勉強して、文系らしい文系の生き方をするのだと思う。それは持って生まれた性質の問題だ。京浜東北はそこまで人生に対して意欲的に選択をしたいとは思えないし、東海道がこの先も生きていく上で勉強をするために理系の大学に進むというのは、あまりにも自然に思えた。
「お前、実験手伝えよ」
「東海道がぴったりと中和を披露してくれるのを見守ってるよ」
一切の処置を彼に任せているのは、結構単純な理由で。
自分が手を出すのは、彼という人間には相応しくないような気がしてしまうのだ。卑屈なものだと思う。こんなにも好いていて、手にしたいと望んでいるものが目の前、これほど近くにいる。高校を出て、道が別たれたあとにはきっと触れる事も能わないだろうと分かっている。分かっているのに。
触れるのは容易く、そして拒まれるのがどれほど怖いか。
そんな下らない思いに囲まれて生きている。愚鈍で人は儚い。
「……馬鹿だなぁ」
それじゃ張り切りますよ、と言う前に東海道が小さく呟いた言葉の意味なんて分からない。分からない方が良い。少し乱暴な口調の中に優しさを感じたならば、それはたぶん京浜東北が持ち合わせた勘違いに違いないのだ。
20110414