上越が着せかえたという長野のお下がりの浴衣は、誰がどうみても幼女趣味、赤地のしぼりに白い金魚が泳いでいる。そこに淡紅色の兵児帯を巻いて蝶々結び、いったいどんな趣味をしていたらそうなるのか聞きたい。そもそも、彼は衣装持ちだから、成人男性の身体に化けている京浜の体格にあわせた浴衣くらい、用意できなかったはずがないのだ。
 とはいえ、これだけ人の多い花火大会の場だ。京浜だって、成人男子に化けていればそれだけ負担も多いのだろうし、そもそも成人男子が二人連れだって花火にくるというのもおかしな話だろう。
「妹さん?」
 そう言われて失笑するのも、おもしろくはないが。京浜を手放すことを考えられないときの迷いのように思っている今、少なくとも子供の形をしているものは庇護しなければならない。
 路面電車は浴衣の客でぎゅうぎゅう詰めだった。東海道の足下でひしとしがみつく京浜の気分が悪くならなければいいが。人よりも頭一つ抜けて背の高い東海道は楽だが、小さな身体になっている京浜には辛いだろうか。どうしたものか。
 目の前に座っていた中年の女性は、これまでに子供の三人くらいは育てたことのある貫禄をしていた。足下にしがみつく京浜と、背の高い東海道を見比べて、彼女は東海道に言った。
「お兄さん大きいんだから、抱っこでもしてあげればいいでしょう」
「……ああ、それもそうですね」
 まさか軍服で花火に出てくるわけも行かず、東海道は古い浴衣を引っ張りだして着ていた。どちらも新品の浴衣ではないのが、かえって女性に兄妹らしい印象を与えたのかもしれない。
 京浜は不安げに東海道の顔を見ていたが、東海道が腕の力だけで、よ、と京浜の身体を持ち上げると、今度は驚いたようにじたばたとした。そうすると下駄が片方転げそうになって、あらあら、と笑いながら女性が拾ってくれる。
「すみませんっ」
 京浜は声帯を震わすことはできないが、一般人を相手に話しているように見せかける程度の術ならば、造作なくできるという。どうにもかわいくはない理屈だったが、様々なことが珍しい子狐が、こうやって東海道と一緒に出かけて、一般の人間とふれあっているというのも物珍しい話だった。
「どちらまで乗っていくの?」
「浅草まで行きます」
「そう、じゃあおばちゃんが降りるときまで持っててあげるから、しっかりお兄さんにつかまっておいでなさい」
 赤い鼻緒の少しゆるんだそれは長野からの気遣いで、新しいものをはくときっと足が痛いから、と言ってよこされたものだ。彼も上越が異界から連れてきた芭蕉の葉だからといって、幼女趣味を着せられていたことに違和感はないのだろうか。そして、いくら最初に令嬢の格好をさせたからと言って、京浜もそういった格好になじみすぎではないだろうか。
 京浜は周りの人からの気遣いというものに慣れないので、不安げな顔で東海道の方を窺った。良いのだろうか、という疑問が抱き抱えた身体から伝わってくる。東海道は、出来ないなりに不器用に笑って、京浜に言った。
「お言葉に甘えておきなさい」
「はい、有り難うございます」
 自分の言うことを素直に聞き届ける姿は、ちょうど髪が長めにしてあって、それでそんな赤や淡紅でできた色彩、とどめはこれに東北から、ちょうど庭に咲いていた百日紅をほんの数時間分だけ時を止めたものを髪に挿されているのだ。女子に見えないわけがない。
 そんな格好で礼儀正しく他人に礼を言えるなんて、これが妹ならば自慢の妹だし、妹でないならばいったいなんだというのだ。どう言えばいいのだ。
 京浜と女性が世間話を始めた。京浜は己がこれだけ飾られて女子に見えないわけがないことをそうそうに諦めていたので、お嬢ちゃんいくつ、とかいう会話を上手く交わしている。誰に似たんだか、異界生まれの生き物の知り合いの顔を思い浮かべた。上越、長野、京浜、うん、なんだかどれもこれも一線を越えてしまっていることは間違いない。
 東海道にとっては初めての式だ。京浜も、どうやらそうらしいということがわかってきた。上越にこっそり聞いたところ、基本的に式というのはひとりの人間の契約が解けるとき、きれいさっぱりそれを忘れるのだそうだ。あの上越の言うことだから本当かどうかはわからない。ただ、長野だけではなく、京浜も自分の仲間の、それも幼いのが加わったとあって、近頃上越はすこし気が落ち着いたようだった。
 特別視してるねぇ、と笑われて、自分の式を特別視しない式使いなどいるのですか、と問い返すと、ううん、そうじゃない、と上越は言った。僕はきっと、あれからそんなふうに思われることはない、とも言った。ごく個人的な関係の話だろうか、それならば東海道が口を挟むことは出来ない。
「ごく個人的な話さ」
 上越はそういって指を立てた。笑った猫の顔はひどく綺麗に整っていた。
「君が一番よくわかってるじゃないか、ごく個人的な話だって」
 言われて、はっとなった。
 比較されたのは彼らの話だったが、そもそも話題提起は自分たちの話だった。そこにすでに個人的な関係の可能性を見いだしている。そう、他ならぬ自分が。
「俺は馬鹿か」
「救いようもない大馬鹿さ」
「でもあなたには言われたくありません」
「ふふ、言うね」
 その上越が後ろで結んだという蝶々結びを崩さないように、東海道は気をつけて京浜を抱えていた。他の子供を抱えたことがないからわからないが、やはり軽いような気がした。或いは自分が軍人としてもっと重いものを抱えることに慣れてしまっているからかもしれない。
 百日紅の花は人よりも赤い髪をした京浜によく似合った。一般人になりきって耳と尻尾を隠すときには茶を強めるとはいえ、空の色を帯びた目。いくら女性だってこの子がほんとうに東海道の妹だとは思わなかったのではないだろうかと思う。百歩譲って異人の忘れ形見だとか。単に気遣われただけだというのが関の山ではないだろうか。
 しかし京浜は今のところ彼女がほんとうに自分たちを兄妹だと思っていると信じているようだった。彼の知っている世界は、自分の生きているそれよりも狭い、ことが多い。
 路面電車は目的地に滑り込み、がやがやと人が降りていく。すぐには降りられそうにない。ゆっくりしましょう、と笑う女性は、人がすこし空いたところで、京浜の小さな足に下駄を履かせ直してくれた。
「あの、有り難うございます」
 京浜がきちんと床に降りて礼を言おうとしているので、東海道は今度はきちんと腰を屈めて京浜を床におろしてやろうとした。そうすると女性は小さく笑いながら首を左右に振った。
「お兄さんはきっと、軍人さんでしょう」
「え?」
「力も強いし、手も強そう」
 東海道は、ああ、と思った。この手はすっかり古傷まみれだし、先ほど京浜を腕だけで持ち上げた仕草は、たぶん文人ではあるまいと女性に判断されたのだろう。やむを得ないことだった。
「軍人さんが妹さんとお出かけするなんてすてきなこと。きちんと抱えておあげなさい」
「……はい」
 東海道は小さく頭を下げた。ありがたいことだ、と思った。どこへ行っても軍人なんてだいたい乱暴ものの嫌われ者である。それを、京浜にこんなによくしてくれる女性は、きっと立派な人間なのだ。
「花火、楽しいと良いわね」
 女性は最後にそういって、路面電車を降りていった。
『人というのは、お節介なものなのですか?』
「ああいうのを良い人と言うんだ」
『ふうん』
 京浜は不思議そうな顔をして首を傾げた。その背中で、蝶々の兵児帯がふわふわと揺れた。いつもの尻尾のように、不思議なことがあるとずっとゆらゆらしている様が、まるで京浜がほんとうに小さな子供のようで、不思議だった。

 念のためにピストルは持って歩いていたが、できれば今日はあやかしにも悪い人間にも出会わなければいいなぁと願わずにいられなかった。こんな穏やかに誰もが花火を楽しみに来ている日だ。軍人が騒ぎを起こすなど、そんなことはないに越したことはない。
 京浜は先ほどから、東海道の首を支えに左手でぎゅっと寄り添って、ほぼ肩車なみの高さで人混みを見ていた。妙に悟った目をしているから、つい、そんな色の浴衣にそんな顔、それにあちら側の狐であることを、思い出さざるを得ない。
 屋台も建ち並んでいたが、何せ身動きもとれないほどの混雑である。一度河原に座ったら、帰りまで動かないつもりの方がいいだろう。手癖で小さな水筒をぶら下げていたが、間違っていなかったのかもしれない。中身は、京浜の好きな、何のひねりもない砂糖水である。
「さっさと場所取りをしてしまおう。もうあと四半刻で打ち上げも始まるだろうし」
『はい』
 京浜は素直に返事をしたが、そういうものだということがわかるのかどうかは知らない。なにも広い宴席が必要なわけではない。京浜を膝に抱えて座れば、宴席と宴席の隙間に腰を下ろせばいいことである。
 警官隊が見物客を誘導する波に乗って、東海道と京浜は、観覧席というにはあまりにもお粗末な河原にたどり着き、座った。京浜は東海道の膝に抱えられていることが不満のようであったが、長野さんのお下がりの浴衣を汚すのか、と聞けば、すぐに黙った。
 一度座れば京浜はやはり落ち着かないように左右を見渡していた。同い年くらいの学生が連れ立った集団、恋人同士手をつないで座る二人、家族連れ、いろいろな見物客がいた。確かに自分たちを分類するならば兄妹が一番ふさわしいだろう。
 京浜はぎゅっと腕で身体を抱え込む東海道のことを見上げるようなこともしなかったから、いま、東海道自身は無欲なのだろう。京浜は人の欲を読みとることが出来た。これだけ周りにたくさんの人間がいるのだ、きっとさぞたくさんのものが読みとれるのだろう。
 ためしに聞いてみた。
「どんな欲だ」
 彼の後ろ髪からは百日紅のほんのわずかに甘い香りがした。彼はくい、と振り向いて、百日紅の花を飾ったのとは逆の側頭部を東海道の胸元に寄せた。
 その仕草はたぶん何の気もなかったし、現に京浜が小さな身体をしていてくれたから助かった。成人男性の格好をしているときにそれだったら、正直、どうなっていたかわからない。ぐっと飲み込んで、東海道は京浜の答えを待った。
『食と、性と、雑多な……でも、どれもとても穏やかなものばかりです。手もとからさらさらこぼれ落ちそうな、些細なのばっかり』
 上越が今日、京浜の身体を小さな方にして浴衣を着付けたのはその手持ちの浴衣のサイズの関係だろうが、それにしてもこちらで良かったと思った。そうやって他人の欲を些細だと言いながら、京浜はまだ東海道の欲をきっと知らない。
『案外、人間って欲がないんですね』
「ないんじゃない、ただ、押し殺すことに慣れているだけだ」
 特にこの国の人間は、はっきりと自分が我を通すことで誰が困るかを考えてしまうから、抱いた欲も形にならぬままふわりふわり霧散していく。
 あやかしというのはもしかすると、そんなものの集まりかもしれない。確かに一つ、大きな欲がなければ生まれないものかもしれないけれども、そこに小さな、形にならない欲を食って、獣として大きくなっていくのかもしれない。
 だからこんな花火大会では、誰かがあやかしを放たない限り、悪意の象徴と言われるあやかしが生まれたりはしない。人の些細な欲など、あってもないようなものだ。ただ、人はそれを持って自分の地位を定めようとする。
 自分がそうであるように。
『東海道さんにも欲はあるのですか?』
 京浜は尋ねた。
 彼が東海道の色欲を読みとったのは、彼がこちら側で初めて目を覚ましたとき、東海道が試すように脳内に夜の街の女のことを思い浮かべたときだけだと思う。それ以外東海道はそれらの欲をすべて上手くやり過ごしているし、京浜に、おかしな顔をされたこともない。
 だからこういうことを聞くのは止めてほしいと思った。ばれたならばばれたときだとは思うけれども、見せたいものではなかった。知られてもいい、でも知られて悲しまれるのは嫌だ。自分は面倒な人間だと東海道は思った。おかしくなるくらいだった。
 なんと答えようか思案している間に、夜空に一つ光の軌跡が上がった。あ、と声を出すと、京浜は空を見上げた。そして、わあ、と、それこそ東海道にしか聞こえない音で、驚いた様子を見せた。
 ばん、ばんという音が立て続けに鳴り響き、京浜は空に釘付けになった。後ろから東海道に抱えられた体勢であることなんて、もはやどうでもいいのだろう。花火に必死になってくれればくれるほど、東海道もまさか、自分がそんなまさか、と思っていることをやり過ごすことが出来る。
 軌跡が上がっていく。夜空に花が開く直前、東海道は押し殺した声で言った。
「なくはない、……ないなんて、ありえない」
 抑圧したものは彼に聞こえてしまうのだろうか。京浜は幸いにして後ろを振り向かなかった。聞こえなかったのか、聞かなかった不利をしてくれるのか、きっとどうせそれは、帰り道の路面電車でわかるのだろう。遊び疲れて眠ってしまうのが関の山の子供だったら良かったのに、そう、無力に思った。
 つれてきたのは自分だというのに、もう、逃げ出すことなんて出来ないところまできてしまっている。広がった花火の火薬の燃え滓が落ちていくのを眺めながら、ああ、厄介な道ばかり選んでしまうのはなぜだ、と東海道は自分の思考を儚まざるを得なかった。

初出はピクシブ。軍人さんと式狐シリーズより
20111012