誰の差し金か本人のわざとらしさか、一年で一番東海道が忙しいその日、京浜東北は休みだった。昨日の上がりは二十三時半、何か食べて帰る? という質問に、答える暇すらも惜しいくらいだった。
業務中に軽い夕食をとっていたのもあるし、そもそも瞬間というものは有限なのである。無限に近い時間を生きている東海道だからこそ、現在というものが一瞬に過ぎ去ることを良く知っていた。そして、セックスというのがその一瞬の方に分類されることも。
最後に、もうこれ以上は無理だろうと思うくらい奥で放って、ぱたり、と京浜東北の腕がシーツに投げ出されたとき、つまり、それが東海道が最も幸せに思った瞬間だった。最中に時報が鳴って、喘ぎ声のあいだに、おめでとうと言われたとき、一度放ってからすこしゆるゆると話している間、何を言ったのかほんのりとだけ笑ったあざとさのない自然な笑顔。東海道に抱かれて力が抜けるその自然さえ、愛しくて仕方がない。
息なんてもう上がりきって、まともな音も出せないのに、京浜東北と来たら言う。
「明日は、君は早いよ」
「知ってるよ」
ふふ、と笑うそのさまは夜に甘えるのに実にぴったりで、現に朝が来て目を覚まし、隣ですやすやと彼にしてはあどけない寝顔を晒している京浜東北なんて、この歳にもなるとそうしょっちゅう見られるものではない。
髪を梳く。茶色の髪と、今は閉ざされた空色の目が成す彼の表情がずっと、東海道のためだけに振り回されるのを見るのが好きだった。悪趣味だと笑われたならばそうだろうと言うしかないくらい、彼の見せてくれる、東海道限定の表情、それが何よりもの優越だった。
五時台はまだ暗い。季節は一歩一歩冬に向かっているのだと気付かされる。東海道の部屋に京浜東北を寝かせていくというのは結構特別なことで、シャワーをざっと浴びて着替えているあいだにも京浜東北は目を覚ます気配がなかった。洗面所だけは明かりをつけて、身なりを整える。
今更本線という言葉が流行らないことを知っている。だからなんだろうと言われたときにぐうの音も出ないのはこちらの方だ。だからこそ威厳も何も無いし、だからこそ自分だけはずっと前に立っていなければならない。
黒い国鉄服を不意になつかしく思った。
「今日のこの晴れの日を迎えられることに」
黒だなんて連想も出来ないほどに派手なオレンジを身に纏い、その胸元に手を当てて試しに言ってみた。声は変わっていないと思う。顔立ちも、自分では変わったとは思わないが、古い路線や特急からは、信じられないくらいに柔和になったと言われる。そうそれはまるで、食を捨てていた釈迦が最後、少女に与えられた粥を食べてから、悟りを開いたかのように。
その場合、自分を変えたのは、きっと。
「この身だけでは言い表すことの出来ないほどの喜びを覚えている」
何年も繰り返してきた営みのなかで、今年がとりわけ特別だと言うこともない。来年は節目と言えるだろうか。否、まだまだ。たかだか三桁の年数で満足してはいけない。記憶さえもモノクロに還る。それでも、あの日を覚えている。同じ言葉で、全ての職員を前に語ったこと。黒い詰め襟に付いていた金色のボタン。
走り続けることが生き様だった。それがいつしか自分の上を走る特急に立場を譲り、国のものでなくなった自分たちがただの鉄道になった。時の流れというのはつまりそういうものだ。苦しくもない、ただその事実が歴然と存在している。
「必ずやこの国の先を走り続ける存在となろう」
よくもそんな大袈裟なことを言ったものだと思うと可笑しくなった。
古ぼけた懐中時計を持ち合わせていることを確認し、身だしなみを整えた東海道は洗面所を出た。まだ日も昇らない時間だったが、京浜東北はベッドの上に体を起こしていた。自分をじいと見つめる目は幼い頃から変わらない。誰よりも自分のことを知っているのが彼だ。特急は自分を抜き去っていった。京浜東北は自分を後ろから見守ってくれていた。どれだけ辛かったのか聞くことはしない。けして東海道には分からないことだからだ。
「行ってらっしゃい」
寝起きの掠れた声で彼は言った。笑いもしないその態度がかえって京浜東北らしくて良いなぁと思った。秋の朝に冷たい空気、溶けこむように存在している京浜東北は、いつだって東海道を見てくれている。
「ああ、行ってくる」
そもそも東海道の部屋から見送ってくれると言うこと自体がきわめて特殊だろう。黒い服を着ていた頃にはあり得ないことだった。彼が開き直って、自分が周りを見て、それで、やっとここまできた。腑抜けたと言われたらそうかも知れないし、東海道はとても幸せだった。
彼に背中を向ける。すると、あ、という声を出して、京浜東北が立ち上がった。シャツだけは羽織っていたが、足はしどけなくさらけ出していた。昨日の夜、あれが自分の背中に絡んできたのだ。ぺたぺたと絨毯の床を裸足で歩いてきた京浜東北は、ぽて、と東海道の詰め襟の背中に顔を預けた。
「どうしたんだ」
「裾が折れてたから直しに来ただけ」
そういうとわざとらしく京浜東北は東海道の上着の裾をぴんと引っ張り、甘えるような仕草など何も無かったような体で東海道の背中を掌で押した。畜生、と東海道は思った。そんなことをされて何も思わない男がいるなら顔を拝みたい。
「早く行きなよ」
「京浜東北」
「なぁに」
「夜、お前の部屋行くから、ちゃんと待ってろよ」
「どうだか」
「まぁ寝てたら引き返すわ」
「それは困る」
振り回したいのか振り回されたいのか。しれっと言い放った可愛くない薄い唇にキスをすると、彼は小さく笑った。
「晴れの祝福だ」
そんな大したものじゃない、と言おうとしたけれども、京浜東北が東海道を見つめる目があまりにも穏やかだったから、何も言えず、ただ、ほんの僅かに時間を惜しむだけだった。
20111012