四畳半の狭い部屋は京浜に個人的に宛がわれた私室であり、此の中ではなにをしていたって許される。そもそも、どんな物事だって、心のうちにしまっておいて外に出さない限りは、許される。
どんな夢を見ることだって。
京浜は畳に寝転んだ。仰向けに見れば天井の木目に吸い込まれそうな心地がする。だから自分の視界を遮るように時計を目の前にぶら下げた。其れは彼がくれたものだった。五回目の開業記念日を迎えたとき、物を貰うことに慣れない京浜のために、わざわざ彼が使っていた古いものをくれたのだ。
新しい物を怖がる心は、とても幼いものだと思う。あらゆるものが、こわれてしまったらどうしようと、常に考えている。この手の小ささが、いろいろなものを取りこぼしてしまうのではないだろうか。背丈はすこしずつ彼に追いついてきたけれども、体の隅々までがその変化についてきているわけではない。しっかりと身体の作られた彼と、ひょろひょろと光を求めて背を伸ばしている植物のような自分とは、全然違う。
寝転んだ頭の上には花が生けてある。水仙と山茶花は此のあたりで珍しい花ではないが、綺麗に開いた其れは東海道が見繕ってくれたのではないだろうか。何処で摘まれた花かなんて聞くに聞けない。良く晴れた冬の日に、彼が袴の上に羽織ったマントの下から手を伸ばして此の花を摘んできてくれたのだとしたら、其の幸せだけで目が眩んでしまう。
視線を貰うことすらも緊張していたことがある。其れくらいに、彼のことが怖かった。誰よりもいとおしく尊敬に値する男と一緒に働いていることが奇跡のようだし、時計をくれたときにはいっそこれを手切れに何処かへ行ってしまえばいいと思っているのかと思った。其れくらいに、彼の所作は全て、京浜のことを変えてしまう。
時計を、ぽとり、と畳に置いた。冬の夕暮れはあっという間に真暗になり、行灯の光が揺れるだけの部屋では読み物もままならない。寮の廊下に出れば蛍光灯がちらちらと光っていることは知っていたが、食事の気分にもならない。仰向けになっていた身体を半分転がして、花瓶ごと花を正面から見た。陰りゆく部屋で、水仙はまるで暗くて冷たい空気に溶けこむようだったし、山茶花は逆にその鮮やかな色でじんわりと浮かび上がっているように見えた。
毒は、いつのまに飲みこんで身体に回ったのか分からない。ただ、どうにも此の頃、いけないことがある。
「好き」
山茶花の花など花弁の数も高が知れていて、自分の望む結論が得られることも知っている。彼のくれた花の花弁を千切るなどもってのほかだから、指先で数えるように占うだけだ。そう、彼に好かれているか否か。
此の花束を届けてくれたのは職員だった。朝、冬至も近い此の頃だから未だ暗い時間、東海道は何処かの機関に出かけているはずだった。其の彼から、花を届けに来ましたよ、と襖の向こうから職員が声を掛けてくれた。
東海道さんからお花ですよ、と言われたとき、自分はどんな顔をしただろう。
「嫌い」
次の花弁を指で弾きながら思う。
はじめに贈り物をした年に京浜を泣かせたことで懲りたのだろう、東海道は其れ以降、必ず十二月二十日を祝うが、大仰な贈り物をすることはなくなった。今年も、着々と東北本線との話が進む京浜に、あとに残らないものとでも思って、花を贈ってくれたのだろう。
其れでも、夢だけは見たい。夢を見ているだけで良いはずだったのに、なんと浅ましいことか。
「好き」
欲が尽きない。
尽きないからこそ、信じられないことを望んでしまった。
花を受け取ったとき、職員に、東海道さんは、と尋ねた。もちろん、彼の予定は把握していた。職員が花を届けに来てくれた時間には、彼が既に自分たちの建物を出ていることも勿論承知していた。
其れなのに欲を隠すことが出来なかった。今日はお出かけになられましたよ、と何もおかしな様子もなく答える職員に、そうでしたね、と言いながら、京浜は何処か、彼の残滓を探している。
東海道も、或いは職員たちも、蝶よ花よと自分を育ててくれていると思う。其れは明治の時代からまるで鉄を鍛えるように振る舞ってきた男らしい彼らにとって、ひとつの安らぎのようなものだろうとは分かっていた。だから京浜も敢えてそれを止めることはしなかった。どのみち、東北本線と直通するまでの話だ。
ただその育てられ方故に自分が我が侭になったのか、或いは許されていることによって自分が単に自分を抑えきれないだけのことかはよく分からないが、京浜は、とんだ大それたことを望むようになってしまった。
「嫌い」
声に出して四枚目の花弁を数えてから、ちがう、と京浜は内心で呟いた。
そんな感情で済むならば済ませている。もっと重度の物事がある。京浜はそれを最早自力で動かすことが出来ない。凝り固まった思いを毒だとするならば、常人の身体ではきっと致死量に達している。長い時間をのらりくらりと生きている鉄道だからこそ、自分からはけして、彼の方に一歩踏み出すなんて出来ない。
こんな花を贈ってくれることを心がけてくれているならば、あとはもうひとつだけだ。心はとっくに差し出している。東海道だってきっと知っている。此の身体だけが彼に差し出せるもの。そしてそうやって繋がるのには、理由がいるということ。
くだらないと笑えたならばそれが良い。けれどもそうすることができるほど京浜は世間を知っていない。長い時間を生きる自分が、こんなにも短い時間で燃え尽きてしまうような恋をした向こう見ず。此の罪はきっと、あがなおうとしてあがなえるものではない。
時計の針だけがこちこちと動き回っている。花は香りを冬の寒さに落としていく。
「そんなものいらないから僕だけを、見て下さい」
自分の部屋はなにをしても許される。これ以上踏み出すことが出来ない空間でもある。
相反することを、祈るように思う。此の言葉が不意に彼の耳元に聞こえますように。こんな自分を、彼が見つけませんように。
20111220