「できちゃったみたい」
「何が」
 朝から戻ってきた品川駅、6番線で、いつものくせで先頭車両に乗っていたら、降りるところで袖を引かれた。彼にしてはえらく切迫した顔をしているものだから、その主な印象を与える空色の目を疑うという選択肢を持たなかった。
 馬鹿だと思う、というか誰かに馬鹿だと言って頂きたい。
 車両が出てしまって、人のはけた東海道線上りホームの先頭、袖を引かれて、真顔の京浜東北にたった一言だけを言われて、その続きがないのである。不安にならないほうがおかしい。誰に、何が、それを言ってくれないところがいかにも良くなかった。
 だって、この沈黙。
 降車するなり捕まって、電車がいってしまって人がはけて、それでまだ何も言わない。これが不安にならなくてどうする。
「京浜東北」
 袖を掴んでくれるという滅多にないシチュエーションは嫌いではない。それでも彼が躊躇っていることを聞く方が先決だった。彼は右手で東海道の手を掴んでいた。余っていた方の手で京浜東北の右手に手を添えてやる。京浜東北はその手を、左手で取って、それから彼の薄っぺらい身体に寄せた。
 そう、臍の辺り。
「だから、その」
 その仕草が意味するところが分からないでもない。ただありえないだろうと思って蹴飛ばすのが普通の反応だと思う。実際九十八年間彼を見てきて、できるわけがないだろうと思っていたのはこっちの方だ。いや、できるとして、できてどうなるというか。
「……いつからだ?」
 何が正しいリアクションか分からず、東海道はとりあえずそう尋ねてみた。一旦手を下ろしてくれたので、僅かに肩の力が緩んだかもしれない。
「ちょっと前から気分が悪くなることが多くて、」
「ちゃんと飯は食ってるのか」
「君が帰ってくるから今日はちゃんと食べたよ」
「そうか」
 冷静になれば、それはつまり、一児の親となるわけで。京浜東北の身体を労ればいいのか、自分の身に降りかかった突然の出来事を喜べばいいのか、というかもうちょっと、そもそも冷静になった方が良いような気がする。
「とりあえず、まだ君にしか言ってないけど、君には言っておかなくちゃいけないかと思って」
「それは、そうだな」
「あまり大々的に言うのも、よくないと思うし」  何処までも冷静な彼は、確かにいつもよりも疲れた顔をしているような気もしたけれども、それは単に休日の朝眠たかっただけかも知れないし、もしかしたら少し、土曜日を共に過ごさなかった東海道を責めているだけなのかも知れなかった。とりあえず、こういう場面で取るべき対策は、本能のままに動くこと、なのだろうか。
 なので、抱き締めてみた。
「な、なに」
「よく分からないけど、嬉しいから」
 東海道は腕の中にある、それほど背丈の変わらないその亜麻色の髪を見ながら、若しかしてこれはありえない嘘に騙されているだけかもしれないときちんと気付いていた。のだが、これが若しかして真実だったらどうしようと、動転しているのも事実だった。つまり、冷静さを欠いていることだけは間違いなかった。
 後ろからぶん殴って冷静にしてやりたい。
 東海道がそうするまでもなく、京浜東北が東海道の身体を突き飛ばした。その表情は毎度のようにあまり色が変わっていなかったが、それはいつものことであると東海道も良く知っていた。だから、いつもの照れ隠しだと、信じて疑えなかった。馬鹿である。
「そういうの、人前でやるの止めてよね!」
 そう言ってくるりと踵を返し走り出す彼の後ろ姿を見て、そんなに動いて大丈夫か、と心配しているのだ、矢張り馬鹿である。

 冷静にならなくても今日の日付を考えればそれはあり得ない冗談である。
 ただ東海道はぼんやりと考えていた。
 できちゃった、と呟いた彼の、彼らしくもない袖を引く仕草、それが可愛くてその気になってしまっている自分がいること。何年かぶりにその気になってこの嘘に乗り切ってやろうという、悪ふざけに興じる気分になっているということ。
 昼も過ぎて、頬杖をついて書類をめくっている東海道の後ろから、こつこつと靴音を立てて近づいてくる姿は、硝子窓越しに見えていた。日曜日の誰もが思い思いの場所でどう過ごしているのか知れたことではない。ただ、自分の意地の悪いところと、それから彼の悪ふざけが丁度噛み合ってしまったのが、悪かったのだ。
「何考えてるの」
「名前」
「は?」
「名前だよ、それ以外何がある」
 椅子ごとくるりと振りむくと、いつもよりも一歩向こうで立ち止まっていた京浜東北の手首を今度は自分が引いた。バランスを崩さないかわいげも彼の内だ。どことなく口元の笑いが隠しきれない彼の、性の悪さが嫌いではなかった。
「全然考えてなかったでしょ?」
「どうだろうな」
 腰を捕まえて、座ったままの自分からその身体を引きよせる。彼の身体に耳を押し当てると、丁度冗談のようにぴったり、その下腹部に当たった。彼にしては珍しい類の冗談にその気になる自分が、多少意外だった。
 彼の臍辺りから見上げると、眼鏡の向こう、空色の目とぱちり、目があった。何を考えているのかいまいち分からないことは多かったが、彼が何故その嘘を口にしたのか勝手に察してしまうのは、それは長い付き合いのなせる、業だろうか。
「寂しがらせたか?」
「センスの悪い冗談、よしてよね」
 身をかがめる次いでに彼が眼鏡を外したから、嘘で甘やかす時間はこれで終わると言うことなのだろう。東海道はその手から眼鏡を奪うと、くいと首の後ろから手を回して彼のことを引きよせて、白昼堂々と口づけを交わした。

とてつもなくぱっとしない冗談は似合わない
20120401