「女性というものは辛抱強いですね」
 じわじわと痛む首筋から後頭部にかけてを指で押さえるのは、自分で自分の痛みをよく分かっているからである。つまりこれだけ偏頭痛に慣れているというのも情けない話だが、言うなれば自分の方がましだと道子は思う。とりあえず、濡れ鼠になって床に転がっているほど、動けなくなるわけでもないし。
 とはいえ首筋とこめかみを片手ずつで押さえて、うつむいているときに上から声を掛けられては、まったくその声の主も見えたものではない。ただ、これだけ気軽に自分に声を掛けてくる、しかも敬語を使う男なんてひとりしか知らない。道子はいちいち顔を上げることもしなかった。弟というのにはあまりに歴史ある弟の、あえて曲げた矜持を刺激するほど、道子は物事を知らないわけではなかった。
「身体が痛むことになれているのだと思うわ」
「いたわしい」
 言いながら机の上、水とミントタブレットが置かれるのが見えた。名古屋はいつだって不思議と台風が直撃する。日本列島の中でもっとも南北に狭いところだからだろうか。東京にいる頼りがいのある男のところで朝から転がっている東海道のことをいちいちどうこうしようとは思わない。相棒がそういう生き物であることは道子にとって織り込み済みだ。
 似たような性質をしていても、こちらは不思議に道子の前では情けない姿を見せない本線は、兄のことでおろおろしている姿を見るときにはいまいちぴんとこないけれども、こういうときに、手慣れた男だなぁと思う。あしらいを知り尽くした男の子とを憎らしく思うほど、道子も若くはないけれども、一丁前の新幹線になる前、彼にあこがれた時期はあった。たぶん、この社の中にいる女性は、否、一九六四年よりも前を知っている女性はみな、彼にあこがれたことがあるのではないだろうか。
「そうかしら」
 コップの水を遠慮なく飲み干す。冷蔵庫に入れてあったペットボトルのミネラルウォーターだろうか、冷えた水は身体に良くないと言うけれども、多少頭がすっきりしたのでいまはこれでよかったのだろう。ミントタブレットは横目で見て後に回した。硬いものを噛むのを想像しただけで頭が割れそうになる。
「同じ状況でもなにもおっしゃらない、みずからの背骨で立っておられる」
「わたしはそういうやり方しか知らないからよ」
 優雅な身のこなしも、優れた曲線美も持たない道子は、ひたすら走るしか知らない。蓮っ葉という言葉を自分に使われるのはやむを得ないと思うが、それでも自分よりも仕事ができる生き物などこの世に相棒しかいないのだから仕方がない。そうでなければ、新幹線など名乗るべきではない。
 とはいえ自分がこんな風に物事を考えるようになったのは間違いなく目の前にいる本線の影響だし、彼が走ることにつけて文句を言ったことなど聞いたことがない。すがるものはさて、彼にあるのか、ずいぶんと丸くなったと言われる彼の甘える姿は、しかし、かつてのあこがれを大切にしたい道子の少女趣味の中では、ありえない姿であってほしいとも思ってしまうのだ。
「もしもすがるならばどういった方が?」
 ちょうど見透かしたように振ってくる話題は、これが若い男女ならば答えの見えた互いの駆け引きにすらならない幼いやりとりなのだろうけれども、幸か不幸か残念ながらこのふたりにはそれほどの遠さは残っていなかった。ただの暇つぶしだろうと分かっているので、だからこそ道子もまじめに想像した。
 すぐに思い付いたのは、自らと同じ存在が倒れ込む男の広い胸。
 無口な人がいい、というわけでもない。ただ、彼ならば触れてもいい、とは思う。長らくこういった性格をしているせいで、気安く男性に触れることもできないようになってしまっているけれども、それは不慣れなだけで。もしも、もしも道子こそが山形の胸の中に倒れ込むことができるならば、そうできるならばそれはそれでしあわせだろうけれど、あいにく道子が見慣れているのは彼の胸ではなく背中だった。
 相棒は贅沢だと思う。
 あんないい男に倒れ込むし、あんないい男と直通して文句ばかり言っているし。
 それは道子のひがみかも知れなかった。自分こそが女として、かわいがられてみたいと思わないでもない。世の女性にはみな、そういう夢があると思う。けれども、それをしてしまうと自分が自分ではなくなりそうな気がするから、自分の心をしゃんとして、隠し事を上手にしているだけのことで。
「思い付かないけれど、そうね、身近ではない人が良いわ」
 考えていたことを何も言わずに告げると、東海道は苦笑した。
「俺はお役ごめんだな」
「あなたは色々見てきたのだから、心当たりがあるんじゃないの」
「それは、」
 不意に台風情報の中継を続けるテレビに目をやると、のぞく太陽の晴れ間が見えた。九州地方はすでに日差しが出てきました、という声。台風一過の空は鮮やかすぎる。道子には似合わないし、東海道にも似合わないし、本線にも似合わない。それでも、空の色に彼が何を見るのか、明確なことは知らない。
 そして、それは道子が知るべきではないことなのだ。ふたりはいまもひそかに、育んでいるのは、道子にも、東海道にも分からないもの。こんなふうにぐっとこらえることばかりが得意な女もいれば、自分よりもずっと上手に恋人に甘えられる男も、どうやらこの世の中にはいるらしい。
「女性だからではなく、責任感のあらわれですよ」
 この期に及んでそんな聞こえの良いことばかり言う。
 物わかりが昔から良すぎるのだ。だからこそ道子は思わず、嫌みの一つくらい言わずにいられない。
(わたしがこの男の、いまは、上官だから良いけれど)
「恋人だったらたまったもんじゃないわね」
「何をおっしゃいます」
「彼氏がそんなこと、あっさりどこでもいうなんて、きっと気が気じゃないわ」
 誰もがあこがれた東海道本線は、誰ものように彼にあこがれていたただの特急上がりの道子にそんなことを言われて、目を見開いた。一本とってやった気分だ、爽快なことこの上ない。きっと、台風の中心は既に名古屋を通り過ぎたのだ。机の上のミントタブレットを一つ、口の中に放り込む。いちいち、彼の顔を見てやる必要もない。
 遅れを取り戻すのは、だいたい、女の仕事だと決まっている。

道子さんと本線様の話を書いてみたかった 夏
20120713