ホットミルクの日差し  
 
 暖かいって良いよねと、彼らしくもないぽかぽかとしたリズムは太陽光の成せる業。目を瞑ってうつらうつらしている膝の上、久しぶりにスカイブルーに帰ってきた猫もうつらうつら。目の前の海の照り返しは、うっかりすれば日焼けでもしてしまいそうだったが、ふたりとも男なのでシミのひとつやふたつでは何か言わなければならない身の上でもないし。 
 春と夏の境目の季節、ぎりぎり詰め襟で辛抱できる気温。海芝公園はゴールデンウィーク、どこからともなく噂を聞きつけてやってきた家族やカップルで規則的に並ぶベンチはほどほどに埋まっていた。大の男ふたりが並んでいる光景はそれなりにシュールだと思うのだが、ひとつフェンスを越えてからその奥の空間まで深入りしてくる人間は多くない。それに制服ではない、休日に忙しいのは上官たちだと決まっているから、すこしくらい休んでも良いかなぁと言い出したのは彼の方だった。 
「もっと遠くへ行かなくても良かったのか」 
 二宮から久々にもといた海に帰ってきた猫は、もともと座っていたらしいベンチで、いつもよりもすこしばかり人工的で値段の掛かる食事を貰ってご機嫌。それを抱える空色の目の猫は、日頃の疲れが出たのか、眦をとろんとさせてお昼寝。 
「だって君がいるじゃない」 
 それ以上何? 
 眠たさ故に雑になる言葉こそ本音だとしたら、それは卑怯というやつだと思う。  
 
* 
 
赤い果実  
 
 嫌いな食べ物というのがひとそれぞれにある。彼にもある。おかげで京浜東北はその食べ物を嫌うひとのことをなんとなく見抜くことができる。それくらいに、彼らがその赤い実を見たときの反応と言うのは分かりやすい。 
「食べなよ」 
「嫌だ」 
 駄々をこねる彼はどこか子供っぽくてそれはそれでかわいらしいものである。しかしそれとこれとは話は別だ。与えられる恵みを粗末にするなんて信じがたい。 
「こんなに小さなものが、君と来たら、こわいの?」 
 東海道はぐっと押し黙る。 
 かくして彼を白い皿からじっと見つめる赤い果実の無垢な丸さよ。ミニトマト三つごときで彼の人生のすべてを見たわけではないがしかし、そういうところはすこし、優越感を感じないでもない。 
「美味いか?」 
「僕は美味しいと思うよ、すこし甘味があって」 
 もちろんそれは水菓の甘さなので彼好みかと言えば非常に判断しがたい。ただ京浜東北としては久々に彼と二人で囲む食卓で、食べ物を残す彼などみたくないだけだ。それがたとえ、しばらく忙しさにかまけて放っておかれた腹いせに、わざとスーパーですこし高級ではりつやのいいミニトマトを選んだにしても。 
「アルコール分解にもきくよ」 
 実際どうかはいざ知らず、僅かに、飲み会を選んで自分を放っておいた嫌みをチクリ。こういうことにばかり敏感な彼はため息ひとつ、一口で小さな果実は彼に咀嚼される。 
 実際、そんな空間が愛しいだけ。 
「好きじゃない」 
「よくできました」 
 褒めたというのに、彼は憮然とした表情。 
 
* 
 
明けない夜  
 
 思い出なんてだいたい意味がない。 
 分かっているのに、自分の抱え込んだものを延々と大切に手放さないところが自分の駄目なところだと知っている。もっと人生を謳歌すればいいのにと思っていながら、それでも知っている。思い出さないのはつまり忘れないから、即ち、忘れることなんてできないままでいまもしつこく生きているから。 
「君は昔あんなに黒が似合う男だったのに」 
 七番線を見上げてつぶやいた言葉の、その自分の口元が動いたという事実さえ、彼はきっと気づかない。そのほうが気楽で良いと思う。両思いになるのがほど遠い恋ならば、ずっと片思いでいたほうが気楽だ。 
 あんなに黒が似合う男だった、軍服とは即ち、その格好で結婚式にも葬式にも出られるくらいに正式な堅苦しい黒を、彼はいつも着こなしていた。いまはそれを思い出させるのはあのつややかな黒い髪だけだ。それからまなざしもいまも、黒い瞳から放たれて、その行く先はいまは、どこを見ているのだろうか。 
 不思議だなと思う。彼の傍にいるように生まれついてもうすぐ百年になる。まだ九十五年だ。しかしこれまで生きてきたところ、あと五年なんて言っている間にすぐのこと。人生五十年なんていつの時代の話だろう。鉄の塊は、あと何年こうして、彼のことを思うことを選び続ければ良いのだろう。 
「いまでも君が好きだなんて?」 
 叫び声なんて性に合わない。まして、甘く掠れた声なんて。 
 だから思うのだ。ああ、いとおしさだけで、九十五年生きてきた。だからあと五年、きっと生き延びてしまう。 
 それを不幸だというのか、幸福だというのか、それは自分では決められない。喪に服する夢を見たまま、黒を投げ捨てた自分は、今日も胸元のあざやかなスカイブルーの心臓を握りつぶす。 
20130514