「山陽,わたしだ,東海道だ。聞こえるか」
博多駅の執務室で珈琲をすすりながら,ファックスがはき出したまま放置していた博多でこなすべき執務の書類に目を通していると,高速鉄道専用の電話回線が鳴った。左手で取った受話器を肩と左耳に挟む。
聞こえてきたのは喧噪に混じる高くもなければ低くもないけれどもその性格のにじみ出た声で,ああ,東海道の声だな,と山陽は思った。そうして心のほどかれる自分を妙に仕方ないとしか思えなかった。
「受信してるよー。どうしたの東海道」
仕事は全く途中のままだったけれども,その着信を無視するなど自分にはあり得ないことで,山陽は文字を目で追いながらも耳に集中する。
発信元は東京駅の彼の個人執務室のようだった。そうだよね,今日は確か東海道は一日東京駅詰めだよね,と勝手にうなずく。こうして東海道の予定をすべて把握している自分もたいがい馬鹿なのだろうとは思う。
「博多駅宛にファックスを送っているのだが,見ているか?」
「いま読んでるよ」
「まったくなぜお前はそう忌々しい地にいるのだ。そちらに向かって発信していると思っただけで腹立たしい」
「お前の敵は鹿児島で巣ごもりしてるから安心しな」
簡単な業務連絡の隙間にも,許し難い相手のことを愚弄する東海道に思わず苦笑する。会話からその邪魔者の存在を排除しようとする試みをしてしまう自分は,それはつまり,彼が山陽と会話をしているときは山陽だけに集中して欲しいという執着をも含んでいるのだけれども,いまのところそんなことを口にしたところで勝ち目はないので黙っておく。
「そうそう,その資料だが補足したいことがあって電話している。いま手元にあるなら話は早いが,仕事の話をしてもいいか」
「大丈夫。どうぞ」
仕事の話を引き留めないのは,それを引き留めたら東海道が怒るのを知っているからだ。普段で,一緒にいるときならば,むしろ怒らせてしまいたいのだけれども,いまは仕事の電話だから,そんなことで東海道に苦労を掛けたくはなかった。
たぶん,東海道も,周りの誰も信じてくれないだろうけれども,山陽はけして東海道を困らせたくて馬鹿を言っているのではない。構って欲しいから馬鹿を言っているだけで,時と場合によってはそんなやりとりはなりをひそめるのだけれども,おそらく東海道はそんなことに気づいてはいないだろう。だって何もかもそれもすべて,山陽の心地は東海道のためなのだから。
仕事の時間にもったいぶったことはしない。ペンを滑らせながら,東海道の言葉は割と没個性的に紙の上に書き進められていく。仕事は仕事だと,こんな自分でも考えているのだと東海道は知らないだろう。
それでもひとわたり補足を受けて,書類にメモを書き足してから,一息ついて山陽はところで,と切り出した。
「東海道,わざわざこんなフォローしてくれたのはオレ助かったけど,自分の仕事大丈夫?」
「わたしを誰だと思っている」
「ほっとくと食事を抜く東海道様」
ぐ,と電話の向こうで東海道が黙り込むのがわかった。これは,さては昼を抜いたのだろうと容易に予想が付く。まったく,誰か東京詰めのやからで,東海道の世話をできる者はいないのか,と思いながら,そこで決まった一人の顔しか浮かばないというのはひどくいつも腹立たしいのだ。
「もう日も暮れたのだから,夕食さえ摂ればいいだろう」
「日も暮れたって」
窓の外に見える空はオレンジの夕暮れですけど,と言おうとして,そういえばここは東京からはるか西の博多なのだと思い出す。歯がゆい距離をふと自覚した。
「こっちはまだ明るいよ。東京よりも南だから日も長いし,西だから日が暮れるのは遅いし」
「,そうか,そうだったな」
一瞬,東海道の返答が遅れたのに,よくわからない優越を覚えたのはたぶん東海道が自分のために思考の時間を割いたからだと思う。そんなことで喜べる自分が単純でかなしかった。これだけ長いつきあいでありながら,これだけで喜べる,喜ばなければならないほどの遠い距離感。
(踏み入れたいと願い続けて)
「この書類のデッドっていつだっけ?」
「明朝10時だ。どうせ朝の電車でこちらに来るだろう? そのときで構わない」
「いまからいくよ」
「は? お前博多の任務は」
「これが終われば他はないから,九州の上司に判子もらってすぐそっちいくよ。だから飯それまで待ってろ。なんか作ってやる」
電話の向こうの彼が,どうしようか逡巡しているのを山陽はくみ取る。たぶん,本当に仕事が終わっているかとか,他の男が来るかもしれないとか,そういうことを考えているのだと思う。だから,あと一押し。
「どうせ明日の朝東京なんだから,東京の宿舎に行くよ。帰ってから親子丼でも作ってやるよ。東海道にも飯のついでだろ?」
自分が会いたいことを,ついでだとしか言い出せない自分に,もう少し根性があれば事態はもっと前に変わっていたと思う。
けれども残念ながらそんなことは言えない自分に東海道は言うのだ。
「ついでなら待っててやる,早くしろ」
いっそ,YES,上官と答えてやりたい。
山陽の左右がまだわかっていません。
20090810
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