この男は眼鏡を外してもあんな表情を出来るのだろうかとふと山陽は思った。書類に目を落としている男の顔の輪郭は眼鏡の奥でゆがんでいる。度はそれなりに入っているのだろう。ここ最近基本的には自然の中を走る時間が長い山陽と違って,この男は延伸や予算のことを考えすぎてあまり遠くを見ていないのだろう。それは目も悪くなるはずだ。
「わたしの顔に何かついているだろうか」
「いや。眼鏡の度を見ていた」
「ああ」
九州は徐に眼鏡を外した。山陽の思考を読んでるかのようにいやみな男だ。この男の真意を一つでも読んで,一つでもその意図を躱し,一つでも先手を打つのが,山陽は自分の役割だと思っている。
誰かにそんな仕事を与えられたわけではない。山陽が勝手にしていることだ。けれども山陽にしてやれるのはたったそれだけのことだ。
たったひとりのために。
「あまりこうすると見えない」
「意外だな」
答えながら,山陽はさほど意外とは思っていない。九州にとってもどうでもいいことなのだろう。眼鏡を外して笑えば,すこしだけ線が柔らかく思えたけれども,あくまで一般的な感想だろう。この男に柔らかさや隙なんて何もない。
「この方が人に隙を作れるだろうか?」
「一般論で言えば」
「ならばわたしには要らない工夫だな」
眼鏡をかけ直しながら九州は笑った。見慣れた表情だった。確かにこの方が山陽の方が気も引き締まる。この男はこういう生き物だ。
「相手に隙など要らない。圧倒的な力でねじ伏せるだけだ。それがわたしのやり方だ」
「相変わらず高圧的ね,つばめちゃんは」
山陽は吐き捨てて,博多の執務室で外を見やる。ここはもうすぐ,彼の天下だ。山陽だってわかっている。多くの人に利に資するため,或いは社会的な要望で言えば,この男をさっさと東京まで連れて行く方が効率的なことなど分かっている。
それでも,この男の望みより,それより,ずっと大切に,守らなければならないものが,あることを。
「お前はどうなのだ」
「俺?」
「どう見ても隙だらけの男だ。アバウトだ。いつでもわたしのもとに跪くべき愚かな男だ。そのくせにわたしはいつもお前を捕らえ損なう」
毎度毎度長い口上だ。博多駅の前のタクシーやバスの喧噪から目線を転じ,山陽はゆっくりと九州を見やる。
九州は射貫くような目線で山陽を見ていた。その心持ちなど知ったことではない。乗っ取る,乗っ取りたい対象は何なのかを,山陽は知らない。たとえば九州が山陽を乗っ取りたいとして,それならば山陽に出来ることは,いつか九州新幹線が走るだろう元が自分の線路だった架線に,せいぜい置き石をすることくらいだろう。
それでも彼が,苦しむくらいなら。
「お前の望みは何だ」
「俺の,のぞみが,淡々と走ること」
山陽が言った言葉を,どうせ九州は愚かだと思って聞いている。それでいいのだ。山陽が九州を一つでも進ませなければ,それだけ東海道の心の平穏が守られる。
たったそれだけでいい。
「随分と尽くすのだな」
「九州男児とは訳が違うんでね,優しくしないとよそ見される」
「失うのが怖いのか?」
「手にしてもないものを失えないでしょ?」
テーブルに歩み戻り,今日持ってきた書類のうち,九州がサインをして取って返せるものを回収する。東海道のサインを見るだけで,それでしあわせなのだ。
「ただ,彼を守るだけ」
「愚かだな」
「結構ですよ」
翻した制服の裾は高速鉄道の誇り,ひいては彼の誇り。
九州とは湿度も温度も違っても,笑えていればそれで十分。
紙カタログの4コマを見てこんな話が出てくる自分は幸せ者だと思います。
20090816
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