付け焼き刃の自覚

「うわ」
 上越は扉を開けてから,非難の意図を込めて声を上げて顔の前で手をひらひらとさせた。窓は開け放たれていてもこのにおいはひどい。スプレー缶のにおいだ。一昔前ならばいろいろと勘違いをされていてもおかしくないたぐいのにおいだ。
「誰かスプレー使ったの?」
 東京駅の高速鉄道の休憩室に,目に見えてそこにいたのは東海道だった。入り口に背を向けるソファーに足を組んで座って新聞を読んでいる。今日も良いくせ毛のはねっぷりだ。
「ああ,山陽に黒染めをさせている」
 首をひねって見せる東海道の顔はいつも通りしっかりと硬い。これに意地悪をするのが楽しいんだよねぇ,と思ったけれども,今は部屋のにおいを何とかする方が先決だ。
 といっても洗面台と簡易キッチンの換気扇はフル稼働に窓が開いていて,これ以上何をどうしたものか。自分に続いて部屋に入ってきた東北が,せめてもの抵抗に扇風機をつける。
「ずっと中にいるから麻痺して分からなかった。そんなにひどいか」
「ひどいなんてもんじゃないよ,疑われてしょっぴかれても知らないよ」
 勿論冗談だが。
 東海道はそれほどか,と眉をひそめた。あーわりぃ,という山陽の間延びした声が洗面所と部屋を仕切るカーテンの向こうから聞こえた。
「手伝おうかー?」
 割とあれは面倒くさいのだ。綺麗に染めようと思ったら髪をブロッキングした方が良いし,スプレーだから思わぬところに飛んで壁や服が汚れたりする。手だってゴム手袋をつけてやった方が好ましいし,自分だと後ろが見えないから絶対にムラが出来る。しかもあとからひどくぱりぱりするし。
「大丈夫ー,もう終わる」
 宣言通り山陽の言葉に続いて何か紙をごそごそ丸める音が聞こえた。おそらく洗面所に覆いを掛けていた新聞紙をまとめているのだろう。
「なんでまた」
「明日の会議がちょっとやっかいな相手だからな。対策を打つように言ったのだ。今やって今晩髪を洗う方が明日なじむだろう」
「染めたことなんかないでしょ? 東海道が良くそんなこと知ってるね」
「あいつとは長いつきあいだから,そういった手順くらいは知っている」
「ふうん」
 東海道にしては独占欲じみた発言だ。からかってやろうと口を開こうとすると,遠くから東北の視線が牽制してくる。視線だけで上越を牽制できないことなどいままでの経験からよく知っているだろうに,それならば直接にアクションを起こしてくればいいのに,と思うけれども,今回は山陽の反応の方が早かった。
 しゃ,とカーテンを開ける音。肩に掛けていたタオルを外して,どうよ,と東海道に見せつけるように黒い髪の山陽がその場で一回転する。なるほど上越にはその姿は見覚えがなかった。比較的仲が良いと言っても,山陽と上越はそこまでつきあいが長いわけではない。しかもたぶんそういったたぐいの染め直さなければならないような会議はあまり東京ではないのだろう。
「換気足りなかったか? 悪ぃ」
「まーしょうがないよね」
 生返事を返しながら,それにしても,と思う。
 もともと東海道と山陽は線路を共有しているだけあって顔がよく似ている。東海道と下の本線はこれもまたよく似ているが,三人で顔をつきあわせているとどことなく兄弟と言うよりは親戚関係だ。東海道が兄弟でいるときには兄弟という認識があるから兄弟だと思う。けれども,この組み合わせ,東海道と黒髪の山陽。
「なんか,兄弟みたいだね」
 これは思ったことをそのまま言っただけ。
 けれども,目の前に座っていた東海道が驚いたようにがたんと立ち上がり,それから黒染めした山陽の様子を見に行ったものだから,上越は,おや,と思って口元を上げた。
「スプレーが,飛んで,いる」
 細切れにいいながら東海道が山陽の頬をそこにあったウェットティッシュでぬぐう。ちょうど東海道は上越に背を向けていて,山陽は上越と目が合う。困ったように笑う山陽がほどほどにしておいてと言いたいことは知っているし,まさかそんなことを上越が聞いてくれるとは思っているまい。
「そうしてると,本当に仲良し兄弟みたい。ジュニアがいなくても二人でやっていけそうじゃない?」
「上越,東海道が動揺するからほどほどにしろ」
「君には関係ないじゃない」
 東北の威圧感を伴う牽制も軽くスルーしておく。
「なかよし……きょうだい?」
「兄弟だって,どうする東海道? あっ,兄さんって呼んだ方が良い?」
 山陽が茶化して空気を流そうとする。そんなことしたって,東海道の思惑は少しくらいは読める。まず,からかいの対象にされることが嫌で,けれども,山陽との共通点や関係性を指摘されることはうれしくて,けれども。
「どっちがお兄ちゃんかな? あっ,それとも,兄弟は嫌?」
 それ以上が良い?
 と口にしたらたぶん東北にしかられるという防衛本能くらいは働くので黙っておく。それに多分放っておいても東海道が自滅する。
「本来は,わたしが兄だが,お前,どうせ,オレの方が背が高いから兄さんね,とか言い出すんだろう……!」
「えええ東海道オレまだ何も言ってない」
「黙れ! だいたいそもそも俺とお前が兄弟など耐えられるか!」
「あれ,そんなこというの」
 あ,やばい。
 上越は漸くすこしだけ煽ったことを後悔した。これだけちゃらちゃらしたナリをしていながら,この男の独占欲の強さと来たら,しかもそれを表に見せるときの煩わしさと来たら。
「オレ兄弟のことしあわせにしてあげるよ?」
 見慣れない黒髪がたぶん目の前で屈んできて自分をのぞき込むから,東海道があたふたと動揺するのがその肩で見える。ついでに甘やかされるというほうに天秤がぐらりと揺れるのも見える。
 君がしあわせにするのは兄弟じゃなくて東海道でしょ。
 口にしようと思ったけれど東北に後ろから口をふさがれて睨まれた。さすがに黙ったのは東北が怖かったからではなくて,東海道が山陽の肩口にぽすりと頭を預けたから。
 どんだけメンタルが弱いんですかと。
 からかうこともかなわないで見慣れない山陽がにこりと笑う。東海道も同じ顔だしこれくらい愛想があればもっと生きやすいだろうに,とは思ったけれども,面倒くさいので黙っておいた。
顔が同じパーツで出来てるって言うから。あまり黒髪を生かせなかった……
20090825(東海道上官のお世話になりながら)(!)


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