校庭から騒々しい声が聞こえてきて、南北はつまらないなぁと目をつぶりたくなった。だって、学校に出てきたからと言って何かおもしろいことがあるわけでもない。手元から少しだけ顔を上げると、半蔵門が目の前でよく寝ていた。机に突っ伏して、そんなに教室で寝てどうするんだろう。南北は不思議に思う。けれども、今は5時間目で、弁当を食べた後の彼は眠くなるのだそうだ。
南北は別に眠くはならない。家に帰ったらすぐに毛布をかぶって寝付いてしまうから、学校に出てきてわざわざ眠くなる必要はない。学校に来たって何も楽しいこともないし、家には一人きりだ。
前の方では担任がだらだらと伊勢物語の原文を書き写している。南北はそれを見るともなしに見た。南北がちょくちょく欠席をするたびに、毎回懲りずに電話をかけてくる。家に誰もいない南北は、だいたい10時15分くらいに東西が電話をかけてくるのを知っている。着信を無視できないのは、何回コールを無視しても彼があきらめないことを知っているからだ。
面倒な相手だと思う。
放っておいて欲しい。
「いいかーこないだやった動詞の文法を使ってこないだの続きの品詞分解と訳をするぞー」
東西の声は低くてドスが利いている。その声はたぶん電話越しに聞き慣れすぎたせいか思いの外耳になじんだ。目の前に寝ている半蔵門は東西の声を聞いても反応しない。蹴るなり消しゴムを投げて起こしてやろうなんて言う趣味は南北にはない。
だって面倒だ。
世の中にいるいろんな人間が面倒だ。
東西の声を聞き流しながら、それでも南北はやってきた予習の内容があっていることは片耳に確認した。だって東西が毎日電話をかけてくるから、古典の予習だけはやらないと仕方ないじゃないか。
「当時のお姫様はなーお屋敷に籠もりっきりで外の世界なんか知らないわけだよー」
きもいなーと南北は内心思った。東西が当時のお姫様とやらの心境がわかるわけがないではないか。でも、東西は古典の先生だから、そういったことも知っているのだろうか。
「だから草に下りた露を見て、あれは玉か? とか聞いちゃうわけだな、玉っていうのは真珠のことだぞ、自然に下りてる夜の草の露なんて見たことがないわけだ」
南北だって見たことがない。冬の朝に家の窓についた露ならば見たことがあるけれども、自然の草の上に露が下りるなんて見たことも聞いたこともない。
教室を見回しながら言っていた東西の目が、不意に窓際に投げられた。南北ははじめ、その目が自分の前で寝ている半蔵門に投げられたと思った。けれどもふと気づけばその目はたぶん自分をとらえていると思った。
見たくない、聞きたくない、五感を閉ざせない間に、東西は南北の目を見て言った。
「世の中にはきれいなものがいっぱいあるからな、目を良く見開いておかなきゃ駄目だ、悪いものばっかりじゃないからな」
気持ち悪い、と思うのだ。
南北のことを見て、そんなこと言うなんて。
それなのに、と南北は思う。
こうしてわざわざ、少し休みがちな南北のことを気にかける東西が煩わしいと思い切れない。たぶん、わざわざ電話をかけてきて、とても煩わしいのに、それなのに嫌おうとは思えない。
南北にとっては、本当に訳の分からない年上の古典教師でしかない。いろんな人間が煩わしい今の南北にとって、一番煩わしい相手であり、それでいて南北は東西の授業のためにきちんと予習をしてしまう。
訳が分からない。
結局南北は東西の言葉を聞いて窓の外をふいと見やった。体育の授業で、生徒が校庭を走っていた。今度こそ東西は半蔵門に起きろよーなんて言っていて、南北はほかの人間をかまう東西に興味を失ってしまったのだった。
そして、露を玉と間違えたお姫様が、そのあと鬼に食われてしまうなんて、そのときの南北は知らないままだったのだ。
一月くらいにはじめてこのパラレル書いたので記念に。「ゆるい衝動、いけない墜落」の設定の習作です。
20100820
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