爪の先からなんでもすべて

※山形が当て馬の予感です。苦手な人はご注意下さいませ。





 山陽が東海道と暮らしだして少し経った。
 時をほぼ同じくして上越も東海道の住まいから最も近い人間である,宝飾品職人のところによく居着くようになった。近いと言っても歩けばかなり遠い。この辺りの山村はそういう地域なのだ。そして上越と自分の違いは,彼は居着くだけでけして住まおうとはせず,自分はなるべくそばにいることを選ぼうとすることだ。
 東海道は自分が言うとおり,この辺りの閑散とした山村の神職として,やれ洗礼だとかやれ結婚式だとかやれ葬式だとか,大きな業務は何もないけれども小さな業務が積み重なってそれなりに忙しいようだった。山陽は定期的に東海道に血をあてがわれていれば人の装いをしていられるので,時には東海道について出かけたり,留守番をしたり,そういう生活を始めたのだった。
 最初の間は時に当てられそうだった十字架も,それだけでは単なるオブジェに過ぎず,ただ東海道が祈る瞬間だけが,やはり何らの力でもまとうのか十字架を見るのもつらかった。それも東海道が祈る姿がいとおしいのでだんだんと慣れた。
 このままでは病にかかる。
 死に至るのではなく,死に至らなくさせてしまうような思いあまったことをする,そんな病。
 うっすらそう予感したのは,また雨の午後だった。決まった時間に紅茶を飲みたがる東海道のために鍋で湯を沸かす。教会の建物は,扉を開けてすぐに見える礼拝堂と,その奥に応接室と東海道が仕事にも住まいにも用いる部屋があり,二つの部屋を並べた廊下に無理矢理台所が突っ込んであった。裏に一つよくさびれた塔があるけれども,本で埋め尽くされて住むこともかなわないらしい。食事は習慣で東海道の部屋で食べることになっていた。山陽には屋根裏があてがわれていた。
 今日は本庁から職員が東海道の仕事の一部を回収し仕事の一部をあてがうために回ってくる日とあって,朝から東海道は落ち着かない様子だった。おそらくは自分のこともあるのだろうと山陽は理解していた。本庁の職員に吸血鬼を飼ってることを見抜かれて平気でいられるはずがない。
 案の定紅茶を入れて部屋に入ると,木の机に東海道が突っ伏していた。端の方にコップを置く。東海道は突っ伏したままありがとう,と呟いた。
 提出すべき紙はもう東海道が突っ伏している隣にまとめられている。ランプが灯っていても雨の今日は部屋は暗い。黒い髪に一度指を差し入れて梳いてやると,おどろいたように一度からだが跳ねて,それから,爪,と無愛想な声がした。
「ごめん,伸びてた?」
 頭皮を引っかけた覚えもないけれども,と思いながら手を引くけれども,顔を上げながら東海道に引いた手を取られた。
「少しでもばれないように振る舞わなければならないからな」
 それから机の隣にある引き出しの一番上をあけて,山陽の手を一度つかんだ手を離して鍵の着いた箱を取り出す。幾重にも布の重なった神職服の袂からじゃらりと鍵束を取り出し,探さずに目的の鍵をするりと差し込む。
 取り出してきたものに山陽は少し驚いた。爪ばさみは驚かないけれども,爪の表面を削るやすりまで見えた。それに爪の色を染める染料まで。一揃えの爪の手入れ道具はむしろ貴族の女性並である。
「使うの?」
「弟が,あるとき吸血鬼になって」
 当然のように山陽を立たせて自分は腰掛けたまま,東海道は山陽の手を取る。少し重たそうな金属の塊だけれども,扱い慣れたように東海道は力を掛けていく。
 言われた内容には驚いた。自分がそう言う存在であるとはいえども,吸血鬼はどこにでもいる存在ではない。まして人間の社会において吸血鬼は狩られるべき存在である。
「私ははじめ気づかなかったのだが,今日職員と来る薬師の男がいて」
 ぱちん,ぱちんという音は小気味よく,少し力が抜けそうになるのはつまりその爪切りの金属の塊の中に銀が入っているのだろう。少量でいきなり消滅するわけではないが,具合はよくはならない。
 だからだろう,やたらと東海道の声や表情の揺れに敏感になるのだ。
「その男に,弟がこれから苦労するだろうからと言われて,何のことか分からないで弟を問い詰めたら,噛まれたとだけは教えてくれた。だから,爪くらい何とかしてやれるなら,と買ったのだ」
 その声には,弟の異変に気づいてやれなかったらしい東海道の苦悩の色がすこしだけ読み取れた。東海道自体がさほどの老年ではないので,おそらくその弟は山陽も知っている相手だろう。近時吸血鬼になった青年がいるとは聞いた気もするし,耳に覚えもない気がする。いまのところはその程度の相手だ。
 東海道が取ってくれる手が逆に変わる。その瞬間に,表情を見落とした瞬間に,声が変わるのに,何か茫洋とした不安を覚えるのだ。
「山形がいなければ,気づかないままだったろうな」
「その,薬師」
「ああ」
 尋ねれば表情は見慣れたいつもの不機嫌そうなかわいげのある表情で,やわらかくその男の名前を呼ぶ瞬間の顔を見なかったのが正しかったのか間違っていたのかも分からない。
 伸びた部分を切り落とし,尖った表面にやすりを掛けてくれる。なるほど発言通り手慣れていて,ここまでは自分でも出来るかどうか分からない。こんなに面倒を見てくれるだけでありがたく思わなければならないのだ。まかり間違っても人間の男の名前をうっとりと呼ぶ東海道に何らの感情を持つなど有り得てはいけないのだ。
 わかってはいるのに。
「いい人なの」
「善意のある人間だな」
「オレを突き出せばどうなるかな」
 やすりを書けてくれている最中の東海道が,いぶかしげに眉を寄せて顔を上げた。その表情,詰め襟の神職服の奥の方,かなり意識して見下ろさないと見えない,山陽が定期的につける噛み跡。
「わたしがそんなことをすると思っているのか」
 表情が見えるというのはひどくわかりやすいメルクマールで,それだけで山陽は満たされた。ああ,こんな顔,例え話に真面目に怒るそのすがた,自分のつけた噛み跡,黒い髪,自分の手を取る白い手,何もかも。
「わたしはお前を選んだのだ。良かれ悪しかれ,手放されるなど,図に乗るな」
 その所有欲は,どこから来るのか。
 いまはまだ尋ねる言葉も思いつかないけれども,自分をつかまえた何もかも,その強い目の光りすらも,ただ愛しいと思うばかりだった。
東海道は几帳面に綺麗なラウンドに爪を整えてくれると思います。
20090912


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