即興サティスファクション

 休憩室のソファーに寝っ転がるのはよしなさい、と何度言ったかも数えるのが面倒くさいので日比谷は数えていない。半蔵門は頭の上にダイヤグラムを載せて、仰向けになって寝ていた。靴をソファーの足下に脱いであるだけ進歩が見られる。
 軽いノック音を立てて日比谷が入ってきても反応しなかったところを見ると、もしかすると寝ているのかも知れない。今日は朝から日比谷自身も、雨でいつもよりも遅延の幅が大きくなってしまったことで、補正にぐったりしてしまっていた。従って、日比谷はことさらその自堕落な半蔵門に注意をしようとは思わなかった。なんというかそこまで気を割く余裕がなかったのだ。
「何か飲む?」
「良い、いらない」
 一応親切心を働かせて、電気ポットの前で半蔵門に声を掛けると、とりあえず起きてはいたらしい彼から返事が返ってきたので、日比谷は心置きなく自分の分だけインスタントコーヒーを作った。気が滅入っているので砂糖は少しだけ多めに投入する。
 日比谷自身が多くの人を運ぶ路線であるから、微々たる遅延は避けようがない。それでもそれを補正しようとするのが日本の鉄道であり、多くの本数を走らせて多くの人を運搬するメトロの役割である。時間は午前十時、ようやく一心地ついて休憩室に来れば、後輩がぐうたらと寝ていたのだ。
 別に彼の運行に支障があったという話も聞いていないので、休みたいならば休んでいればいい。日比谷は最近はその程度のスタンスで半蔵門のことを見守っていた。
 自分の仕事だってあるし、半蔵門だってそこまで介入しなくてもそれなりに走れるようになってきているのだから。それならば日比谷が無理をしてまで半蔵門に胃薬を割く必要はない。
「日比谷ぁ」
 間の抜けた声で呼ばれた。ソファーに寝ていた半蔵門が体を起こす。ダイヤグラムは目の前のテーブルに置いたようだった。日比谷はマグカップを持ったまま、何、と半蔵門の隣まで行ってやる。
 人と話すときに体を起こすようになった、これもたぶんひとつ進歩だろう。たくさん面倒を見てきた分、たくさん進歩を認めてやれるのも自分だけだ。日比谷はそう思いながら、どうしたの、と自分を見上げてくる半蔵門にもう一度聞いてやる。
「オレ、もう日比谷に甘えるのやめる」
 半蔵門がらしくないことを言い出すものだから日比谷は眼鏡の奥で目を丸くした。さてどんな心境の変化だろうか、聞き慣れないことを聞いたものだからつい返事に困って、首をかしげてしまった。
 色をかなり抜いているくせにさわってもしなやかな髪がふわふわと、日比谷の首の動きに合わせるように似た角度で揺れた。そのまま半蔵門がもう一度、もっと強い確信のある表現を使って、日比谷に、別れたい、と言った。
 別れるも何もそもそも付き合っていたのかと日比谷は聞きたい。それから、ああ、付き合っていたっけ、と思い出した。日常に忙殺されて日比谷の自覚は大分薄れていたけれども、ふたりで額を付き合わせて笑ったり、手をつないだり、キスをしたりしたこともあった。
 最近は少しばかりその頻度が落ちているのを日比谷だって自覚していた。けれどもそれは半蔵門の成長と相まって最近は放置していた事柄だった。そうしたら半蔵門なりに何か考えたのかも知れない。
 半蔵門は信じないだろうが、日比谷は日比谷なりに半蔵門に対する執着がある。だから急に降ってわいた言葉は理解が出来なかった。なんで、と声に出して、それから、最近キスのひとつもしていなかった自分が、いざその段になってこんなことを言うなんて女々しいな、と思った。
 半蔵門はそんな日比谷の言葉をどうとらえたのかはわからない。わからないこと自体が薄情だとふと思った。けれども、半蔵門が先に答えを出してくれたので、その点については日比谷も溜飲が降りた。
「オレはどうせ駄目だけど、日比谷まで駄目にしたくない」
 半蔵門が言ったのはそう言うことだった。
 まったく、何が彼をこうさせるのか、普段はあれだけ傍若無人に空気を読まずに日比谷をひやひやさせるくせに、こういうときだけやたらと空気を読んでいるふりをする。日比谷は許し難いとさえ思った。
 わかった顔をするのは十年早い。
「だって日比谷のこと好きだから」
 おおかた誰かに何か言われたのだろう。半蔵門は真顔だった。対して日比谷は放っておけば真顔だから、それほど半蔵門に内心を読まれるような心配していない。ただ、半蔵門は日比谷の表情の変化にだけは敏感だった。見慣れているから、自分の我が侭を正当化するようなことを勘で言っているのだろう。
 つまり半蔵門はたぶんふて腐れているのだ。ここ最近は前よりもだいぶしっかりしてきたし(後輩が出来ると少しは根性が入れ替わった、のかもしれない)、日比谷は面と向かってほめたりはしないけれども、怒る回数も減ったのに、半蔵門はそうやって日比谷が目に見えないところで半蔵門に割いている心境を知らない。目に見えるものに縋ろうとするあさはかさも、日比谷には可愛いと映るだけなのに。
 思考はとりとめもなく思いついた端から空気に溶けていって、ああ、もしかすると自分はショックで混乱しているのかも知れない、と日比谷は思った。けれどもそれ以上に、日比谷はまた確証を得るのだ。
 だって、誰に何を言われたにしても、半蔵門がこうして、持てあます衝動をぶつけてくることが出来る相手は日比谷しかいないのだ。それが性的な衝動であれ、感情的な衝動であれ、負の衝動であれ、日比谷にとっては半蔵門の刷け口が日比谷でしかないことがその執着を満たしてくれるのだ。
(ああ、こんなにいとしい)
「駄目」
 日比谷はするりと口にした。マグカップを半蔵門のダイヤグラムの隣に置いた。このままではたぶん、甘くしたコーヒーは飲めないまま冷めてしまうだろう。それでもいま日比谷は半蔵門をかまってやらなくてはならないのだ。
「僕から離れて、半蔵門がもっと駄目になるのを一番近くで見てるなんて、できない」
 半蔵門はやはりあのふわふわとした手触りの良い金髪ごと首をかしげた。まぶしいばかりで思いやりのない白熱灯の光を乱反射してその髪は綺麗だった。
 日比谷は半蔵門のことを、駄目だと、また悪し様に評する振りの言い訳をした。たぶん自分の口から、半蔵門が駄目じゃない、と言ってやれる日は来ないと思う。けれどもそれはたぶんお互い様で、半蔵門がどれだけ自立したって、日比谷から離れる日が来ないのと同じ事なのだ。
「日比谷は、オレのこと嫌じゃないの?」
「嫌いじゃないから」
 つまり好きだ、とも、伝えないのだろう。
 日比谷の言い回しを何か難しい話だと考えている半蔵門の髪にたまらず手を伸ばした。断定してやる日には、きっともうどうしようもなくなっているから、その髪にたやすく触れられなくなるかも知れない。指のあいだを跳ねる髪の毛の感触はやはり慣れたもので、この髪に触れられなくなるのは、少し悲しいな、と日比谷は思った。
「だから、別れるなんて言わないで」
 差し込んだ指ごと、なるべくやさしく自分の胸元に半蔵門の頭を抱き寄せる。半蔵門は何とも言わなかった。けれども抵抗しないと言うことは結局自分の言った請求は撤回するつもりだろう。
 それでいい、日比谷は思った。
 まだ、どこにもいけない半蔵門のままでいてほしい。
 抱き込んだ半蔵門が身じろぎをしたら、ふわりと髪が手の中で動いた。心地よい感触がうれしくて、日比谷は、よしよし、と頭を撫でてやる。そうしたら半蔵門は不機嫌そうに顔を上げた。
「ほだされてやるだけだからな」
 半蔵門のくせに何を言い出すのか。
 思わず日比谷は吹き出す。
 それから、それでいいよ、と言葉を濁す。
 気づかれないように。
「じゃ、仕事してね」
「意味わかんない」
「わかんなくていいよ」
 半蔵門が少しふて腐れた見慣れた表情で唇を尖らせるから、日比谷はやはりその髪をもう一度かき回しておいた。セット崩れる、なんていうしおらしさを宙に放り投げたような非難よりも、自分にしか見せない表情のもたらす衝動に、冷めたコーヒーよりもずっとほだされた、そんな午前だった。
ジャンル初めてのコピー本「本日、メトロで会いましょう」から再録。
これ、誰が書いたんですか……いろいろと信じられない……
20111128


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